独り言小劇場

答えの出ない事柄を徒然に不定期に書き留めてみる場所。

時間

はたして3.11とは。

震災当日は金曜日だった。
今年の3.11は火曜日になった。
このことからも3年分時間が動いたのだと確認できる。
時間が動いた。
その変動は、経たのか、経ったのか、過ぎたのか。
いや、そもそも時間がはたして本当に動いたのか。
現在をもって終わったこととして済まされることがどれほどあるのか。
カレンダーや時計では追いきれない時間がある。
そういう世界に生きている人が少なからずいる。
これはどう捉えればいいのだろう。

時間の流れに意味が在るや否や。
必要十分な時間というのは何者にも定めはないだろう。
そして、何物にも定められないだろう。
懐かしい思い出になるのもそうだし、熟成期間にしてもそう。
「まぁ、頃合いを見て『そういうことにしよう』」とするだけだろう。
例えば、一途であることは執念深いことの言い換えかもしれない。
ここに見られるのは、ある時点を境に囚われた姿なのかもしれない。
仮に、経過がなければ得られないことがあったとする。
しかし、その結果として得られることが必ずしも必要で有るや否や。
もしかすると、ここにも言い換えが潜んでいるのではないか。

救いということ。
状況ということ。
平静を取り戻しつつある、あるいは、取り戻すために必要なこと。
渦中にあってはそれをそれとして受け止めることは難しい。
していたとすればその時点でその状況から救われているのだろう。
するとは作為である。
意思力の行使である。
慣性や惰性の結果生じたのなら、それは「していた」のではない。
「できていた」のだろう。あるいは、「やれていた」のかもしれない。
意思が介在せず事が済むこと。
このことを否定するつもりはない。
結果、誰にも危害が及ばなければ問題にならないのだろう。
このように「行われるべく」具わった能力の発現だと捉えることもできる。
生物が生を全うするための能力。
製物が付与された目的を全うするための機能。
作られた物は何であれ何かに似せて作られる。
似せたはずのもの以上のものを目指して。
きっとそれは、いいことだろう。
発展はそうでなければ起こり得ないかもしれないから。

進むこと止めること。
どちらもしなくなるのが一番いけないのだろう。
しなくなるのと、できなくなるのとの大きな差。
古語に曰。
不為者與不能者之形何以異?
しないのと、できないのとの違いは何か。
挾太山以超北海、語人曰『我不能』、是誠不能也。
大山を抱えて北海を越えることはできないと語る時、これは事実できないのだ。
為長者折枝。語人曰『我不能』、是不為也、非不能也。
年長者にお辞儀できないと語る時、これはしないのだ。できないのではない。
ここにもきっと言い換えがあるのだろう。

不為也、非不能也。
為さざるなり、能わざるに非ざるなり。
この言葉は名言として知られるようだ。
できないのではない、しないのだ。
つまり、やっていないだけとの意味合いで。
やればできるかもしれないのだし、やってごらんともとれる。
それでいいのだろう。平時は。
戒めにも鼓舞にもある。

しなくなるのと、できなくなるとの差。
しなくなるのは関心がなくなる。
本当にもう無関心になっていいのだろうか。
できなくなるのは何だろう?
事実、できないことが生じている。
「できない=不能」であるとすれば、それだけのことがあったのだ。
やる、やらないの問題ではないことが。
何かが壊れたり、無くなったりすることが。
直したり、補充したり、取り換えたりできないことが。
元に戻せると思って疑わなかったことが、そうではないと気づくことが。
やめることもできたはずのことをやめない。
不便さの中でも生きられたのに、また便利さを取り戻す活動をやめない。
「できるのにしない」には「やらなくてもいいのにしてる」を含んではいまいか。

時の流れに人の思いが乗ること。
人の想いは思いよりも先行する。
思いは重く、想いよりも日常に根付いている。
そこに見て取れる理想と現実を時間が引き裂いている。
そもそも同じ流れに乗るものではないのかもしれない。
しかし、想いと思いを同時に抱く人は、時間から逃れられない。
薄れゆくものと闘い、今と、そしてこれからと闘わねばならない。
型を整えただけで元に戻るものでもない。
元あった形になるまで戻ることはない。
この2つの間に流れる時間にいかにして押しつぶされずにいるか。

どの程度「程度問題」として問題視し取り組むのか。
残った者と去った者との間をつなぐのは思いの強さの違いだけ。
そう言い切れたらどれほどか楽だろう。
思いを残して去る者もいる。
想いゆえに残る者もいる。
事情と状況が許さないだけでまったく異なる道を行く。
けれど、終わってはいない。
その時まで、互いに辛抱するほかない。

やがて亡くなる者が出る。
そして知らない者が来る。
そうやって流れていく。
そうやって繰り返す。
その果てに行き着く先がきっと、元あった形なんだろう。
同じ人達が同じように同じ形には戻れないだろう。
そこに想いと思いが乗った時間が必要になる。
自分だけでしなくていい。
引き継いでいこうとすればいい。
回復ってきっとそういう意気込みだろう。
復興って力み過ぎなくていい。
他所からの力より地所からの力を信じたほうがいい。
伝わるものや伝わることにはおそらく限度がある。
忘れずに見守り続けてくれればいい。
安心して集中できるようにすればいい。
それでだいぶことは進むはずだから。

3.11は単なる3.11ではない。
地震がある、豪雨がある、噴火がある、台風がある。
自然災害との付き合いはいつも身近にある。
犠牲者の多さや影響の大きさだけで語られるものではない。
事前の心構えと渦中の処し方と事後の意気込みと。
一連の中にある自分をどう位置づけるのか。
当事者でない自分をどう位置づけるのか。
経過に何を見るのか。

思考とは思い考えること。
対象に包まれながら思考すること。
一歩引けないところでも思考しなければならない。
例えば、生についての思考もそうである。
思考することが、生という現象である対象に包まれている。
死について思考することはできても死して思考はできない。
限界は見えないながら限度があることを知っている。
一点か一線か一面かはわからないが境がある。
起こる前と起きた後。
生まれる前に私が私として思考できず、死して出来ないのと同じ。
しかし、人は習い、倣うことができる。
予習し備えることができる。
思考が蓄積であるとするならば3.11とはつまり、思考の1つである。

本を借り、読み、返す。その一連。

久々に読書について書く。
記事を書くのも久々で、何を書こうか考え付かなかった。
きっかけは、自分から見つけるより外から来る。
それをどう捉えるかの差なのかもしれない。
きっかけがあっても結局、書くも書かないも自分次第だから。

伊集院静著『大人の流儀3 別れる力』を読んだ。
ただ読んだのではなく、お借りして読んだ。
本は本。読書は読書として済ませられる人は、読書好きではないだろう。
たとえ中古本であっても自分で選んで買った本は特別である。
貸すことに何も感じないことなどないにちがいない。
借りた本を返すことに何も感じないことも、またあるはずはない。
本の貸し借りとは単に物理的な移動をのみ示すのではない。
想いと思いの移動だからこそ重い。
この本には強く再確認させられた。

借りるに至るまでの経緯を書いておく。
貸主が、別れ、とりわけ、死別に関心を寄せている人だった。
新聞での煽り文(各年代読後評)付の広告を見て興味を持ち購入。
読後評はあまり芳しくなく、期待外れとのこと。
感想を他のスタッフに話しそのスタッフが借り読了。
両者読了後での感想もあまり芳しくない様子。
そして、私の手元に渡ってきた。
この時点で未読の私にとって相当のバイアスがかかっている。

この本を読んで得たのは、私の感想と先の人達の感想への考察だった。
著者が伊集院静であり、題名が『別れる力』である。
無頼派の作家が書く別れがどういうものになるのかのイメージ。
イメージ出来ないこともないだろうと思うけれど、そうでもなかったようだ。
まずもって、バイアスがかかっていることを考慮していない感想だと気づく。
別れ=死別のバイアスから読む本ではなかった。
とは言え、仕方のないことかもしれない。
広告の煽り文(各年代読後評)がそうさせたのだろう。
そのことを悪いことだとは言わない。
本もマーケティングが必要な「商品」である。
著者もシリーズの1作として書いていることを作中から読み取れる。
作家が読まれるために本を書くのは当然。
専門書は研究の一助になることを目的に書きそれゆえに値が張る。
本と書物の差を同一視して語ることはナンセンス。

私自身の読後評としては、結果的に芳しくないという意味で一致。
確かに全体を読み通すと「別れ」の種類がいくつもあり楽しい。
が、しかし、主題からずれた話もまた多い。
この本の題名に『別れる力』が最善だったとは思えない。
作中で著者が匂わせるとおり、書いた文と書けた文と書かされた文がある。
著者自身の「別れ」に関することより、著者が接した周りのエピソードがいい。
そのことで作家という職業の特殊性が見えた。
名のある作家でしか出来ないことは、多くの人に読ませることかもしれない。
著者自身が別れに対し深い思い入れがないのではないと感じた。
無頼派である以上仕方のない書き方もあろう。

p.15 私たちは経験したことで何かを知る。何かとは、生きることである。経験と書いたが、それは時間と言ってもいい。生きる時間は常にそういうものとともに歩んでいく。

p.35 初春に逢いに行く人がいなくなった。
人の死はこれが切ない。死はただ逢えぬだけのことなのだが、二度と逢えぬことが真実である。真実は残酷である。

p.52〜p.56 「あの人は私の中に生きている」

p.59 奇妙なもので、あの人を見ると安堵すると感じる人は不思議と切ないことや苦しいことを経験している人が多い。

私にとっては、これらの部分が印象に残った。
本を1冊読み終えたなら、読む前と読んだ後で何かしらの変化があるものだ。
この本でも変化はあった。
残念ながら私自身が大きく変わる程の影響力はなかったけれど。
誰が何を書くのかは大事だし、無頼派作家は無頼派作家として書くしかない。
歳は取り戻せるものでもなく、死や別れの経験も絶対値はない。
男くさい古い男はそれ故無頼派を通せるのであって、情緒は愛するものであり語るものではない。
時期的なものもある。
場所的なものもある。
この時勢において仙台の作家が書く「別れ」に特別な意味がないとは思わないだろう。
題名に寄せられるだろう読者の期待値に対して十分な内容ではなかった。

さりとても、面白く感じた部分もある。
まさに上に上げた印象に残った部分の関連のこと。
逢いに行く人の喪失は実存の消失であるが、喪失をもって代替物(遺品や思い出)を保護するようになり、自分の記憶の限界までの延命をすることもある。
死とは何かを考えるとき、実存の消失ではなく、残り香の消失をもって死であると考えることも可能。
残り香は、忘れてしまうことや自らも死んでしまうことによって消失するのかもしれない。
この様に考えると、別れの辛さがなにゆえか、別れる力は「何への」力なのかを考えさせられる。

時間備蓄妄想。

時間があったらやりたいことは何か?
気になるお題。
これは裏返しの表現ではなかろうか。
時間が「ないけど」したいことは何?
こう考えると時間がある時にしておけばいいことにつながる。
そこで思いついたのが時間備蓄。
貯蓄の方がいいかもしれない。
少し利子もつく。

例えば、休みの日の時間を前もって何時間か預ける。
忙しい日に引き出す。
コンビニでも引き出せると便利かもしれない。
融資を受けられたりするとややこしそうではある。
融資可能か否かの審査はどうなるだろう?
休養に使いたい人の「寝て過ごすため」は融資として有益だろうか?
時間は使う気がなくても勝手に減っていく。
この点、どこから浪費なのかが難しそう。
考えをまとめるまでの時間は傍から見れば浪費に映りかねない。
本人には重要であっても。

融資を受けたら返済しなければならない。
時間を増やすことをしても一定速度で減る。
何もしないとただただ一定速度で減る。
なるほど、これはリスクが高い。

ところで、時間を増やす方法とは何があるだろう。
通勤時間を短縮するとか、家事を分担するとか。
仕事を効率的に終わらせる工夫をするとか。
色々思いつくけれど一番手っ取り早いのは睡眠時間かもしれない。
時間を備蓄して引き出せるとすれば、寝貯めもできるのではないか?
こう考えればいい。
時間は対象物に添加して使用できる媒体である。と。
とすれば、1日1時間1週間で7時間睡眠時間を削って貯める。
それを返済に充てる。
重要なのは利息分より多く返せる計画を立てる。
滞りなく返済して、休日に休養として使う分に上乗せする。

投資なんかはどうだろう。
時間をつぎ込みたい対象に時間を投資する。
問題は時間がたくさんあってもその他の要因でおぼつかない場合もある。
有効な投資先として、世界遺産等はどうか。
補修せずにその時点での状態をキープし続けられる。
時間の移ろいによって様変わりする風情が損なわれるかもしれないけれど。

時間保険も有り得る。
あまり生々しくなりそうなので詳細は省く。

基準とするものとして時間を置く。
そして世界の動かし方の変調を想像してみる。
これは有益性のある時間の使い方ではないと思う。
現時点では。
それで終わりでいいのか。
実現できそうにないことを夢想する時間に有益性がないとすれば発展はない。
時間をかけて乗り越えて行くことの多さは誰しも経験する。
それだけ時間は大切なものだから、忙しい時に時間を求める。
忙しさで蔑ろにするものも、本当は大切にしたい。
優先順位を下位にして日常を優先させているだけ。
そしてたぶん、その下位にある方が本人にとって重要な場合が多い。
だからこそ時間がある時「には」したいという願望として表れる。
そんな気がする。

日常生活での時間は自分でやりくりして調整をつけるしかない。
その中にこんな妄想時間をとる人間もいる。
それはそれでいい。
楽しんで気分と頭のリフレッシュになっているから。
時間の融資は受けなくても大丈夫そう。

65度目の終戦記念日。

戦没者の方々に深い哀悼の意を表します。
この思いが途絶えることがない様に、平和を希求する心を持ち続けたい。

戦争とは何であるのか?
この問いに対し、我が国とは無関係な出来事。と、返答が来る日が来るかも。
果たしてこの返答は適切だろうか?
戦争を知らない人が増えた。記憶の風化が怖ろしい、と耳にする。
そんなことはないだろう。
紛争は今なお続いている。
戦時国家に属していなければ平和なのだという感覚こそが恐ろしい。
同盟国や国際社会の要請に応える為に後方支援を実施するのは国益に叶う。
しかし、その代償として地球規模での恒久平和に反する。

戦勝国の首脳級が原爆慰霊祭に初めて参加したことが話題になった。
国連事務総長が初めて参加したことも話題となった。
核兵器廃絶の機運が高まる中、被爆者の現存が高齢化に伴い危ぶまれる中。
きっと、正しい方向に向かっているのだろうと思う。
過去に目を向けることは大事だし、そこに留まっているだけではいけない。
過去を未来へとつなげていくために今すべきことをする。
それが歴史を良い方向へ導いていく方策ではないかと思う。

ところで、記憶の風化に抗すべき手段は何かをつくづくと考えさせられる。
最も有効な手段が最も回避すべき手段であることが明白だから。
その目的の正当性を訴えたとしても、その正当性を正当化する根拠が無い。
もしも、目的を達する為に実行したとすればその国は称賛されないだろう。
しかしながら、記憶は鮮明なものとなり、脅威の再認識として功績は残る。
功績?一体誰にとっての功績なのか。
人類にとっての功績であると考えることも可能だろう。
抑止力の効果に期待し持ち続ける体制を維持し続ける限りにおいて。
世界が威嚇の上に均衡感を成り立たせていることに不自然さを抱かない。
しかも、あくまで「均衡感」であって均衡を保っているわけでもない。
この事があまりにありふれた日常の根底にあるから見向きもしない。
いや、むしろ、気づくことすらないのかもしれない。
その事を誰が誰に対してどの様に責めることが出来るのだろうか?

戦争を想う時その対にあるのは平和ではないのだと思う。
だからと言って、正しい戦争があるとか、推進すべきとかではない。
重要な事だが忘れがちな事がある。
国連憲章によって法的に規定される上での戦争は存在していない。
にもかかわらず、戦時国際法により軍事組織の義務が明文化されている。
侵略であれ防衛であれ武力行使による被害を最小限にする目的がある。
つまり、人道的な武力行使を消極的にではあるが肯定している。
効果として、戦時における武力行使を超法規的措置として肯定した上で、非人道的な行為を容認する国策を否定することがある。
要するに敵の撃滅の為の措置を認め、不必要な行動の禁止である。
まとめると、キレイな戦闘は認められているということ。
このことからも和平協定締結への働きかけを国連がするのも頷ける。
戦時から平時へと移行すればいいのであり、平和を求めているのではない。

戦闘が無いに越したことはない。
闘争が無いに越したことはない。
では、競争の原理によって勝ち負けがつく物事を否定しうるか?
無理だろう。
それは可能性の追求でもあり希望や感動や連帯感の種でもある。
ならばせめて極力悲しみの少ない、痛みの少ない、悲惨さのないを目指す。
「あらそい」を考える時、3つが一体となると戦争になるのかもしれない。
技術力や物量競争によって闘争に打ち勝つ為の戦闘行動が戦争である、と。

戦争を美化することなど望まない。
無くせないけれど、起こしてはいけない事を忘れない様にと願うばかり。

夜の住人。

昼よりも夜が好き。
それだけで夜の住人としての資質は充分だと思う。

今年は月食の当たり年。
年に3度月食が見られるのは珍しいとのこと。
その珍しい事に今年は恵まれる。
今日は元日に引き続い第二弾。
8時38分に最大の部分月食が起こる。
次の月食の機会は12月21日の皆既月食となる。

天体ショーと言われるこれらの現象。
去年は皆既日食があり、昼間にもかかわらず真っ暗となった海外の映像。
日本では天候不順の為にツアー客は大雨に見舞われながらも真っ暗を体験。
不吉の前兆として捉える文化もあり、単に珍しいからと見る人もあり。
珍しい現象を前にして、非科学的だとか何とか言うのはつまらない。
特別や特殊に独特の意味付けをすることが、文化的であることの醍醐味。
そんな風に感じる。

さて、夜の住人。
闇の住人ではないことに注意したい。
闇の住人は、深い暗さに身を潜め暗躍する様な黒いイメージかもしれない。
もしそうだとすれば、そのイメージと異なる為に夜の住人とあえて分けた。
夜の住人は、もっと穏やかで静的で内側に深い黒を抱え明るさがにじむ人。
活発に仕事をすることは条件に含まれない。
「夜」の持つ、あるいは、「夜」が担う時間区分の中での活動が好きな人。
星空を眺めたり、多くの人が寝静まった後の静けさに安らぐ人。
「明りが灯されていること」の背景に想いを巡らせるのが楽しい人。
夜を媒体に世界が広がる人と言えば想いに最も近い。

専ら想いに耽る。
騒がしさの中からヒントを得るのが昼間の役目。
静けさの中にバッ!と、ヒント達をばらまいて連結を考えて行く。
目を閉じていても開いていてもあまり変わり映えのしない暗さ。
感覚を遮断されることで他の感覚が冴えてくる。
音もほとんど聴かれないし、味も感じない。
組んだ腕と寝床の感触程度の触覚。
いつも通り嗅ぎ慣れた巣としての部屋の匂い。
五感以外の感覚が冴え渡ってくる時。
「何が」冴え渡ってくるのだろう?
この疑問が浮かんだ時にはきっと、「何か」が冴え始めている。

思考とは一体何なのだろう…?
どこに向かっていくのだろう?
行き着く先はあるのだろうか?
ところで、行き着かないとどうなるのだろう?
どうせわからないから考えても無駄なのか、わからないけどわからないなりに考えるしかないのか。
でも、考えなくても生きていけるし、考えるだけでは生きていけないし。
考えてもわからないとつまらないけど、考えてわかると楽しい。
けれど、楽しいからって理由だけでわかりたいと思うのでもない気がする。
わかるってどういう状態なんだろう?
理解って出来るのかな?
それを伝えるのが難しいのって、当然かもしれない。
「何で」こんなこと想い始めたんだろう?
どこから始まったんだっけ?
始まりがわからないのに、終わりがわかりっこないか〜。
本当のところ、まだ始まっていないのかもしれないし、まだ始められていないことで終わってるのかもしれない。
いつもこんなだな〜。
今日はこんな事に気づいた、こんな風に感じた、それらを確認してる。
気がつくと時間は朝に日付は次の日に進んでいる。
夢だったのか「考えた」ことだったのか。
たぶんこれ位のことをするのに、夜の暗さと静かさが好きなんだと思う。

1年に3度の月食は珍しいこと。
次にその珍しい年が訪れるのは84年後。
どんな計算で導き出せるのか知らない。
次の機会には巡り逢えないだろうと漠然と想う。
太陽と月は84年後も無事なのだろう。
だからこそ導き出された計算のはずだから。
けれど、導き出した人間は無事ではいられない。

命の限度は越えられない。
無期限ではいけないとも思える。
長く生きるのは、内容が伴って素晴らしい。
短くても素晴らしい生き方もあるから。
生きている人間が食べるのには理由がある。
月が太陽を食べたり、太陽が月を食べたりに理由はない。
実際には食べていない。
そう見えているだけの現象に興味を抱き、食べると表現する。
この表現を生みだした人間の古くからの感性に感謝。

カーテンを開けて空を見てみる。
雲が厚く月は見えない。
それでもお構いなしに月食は起こる。
人間の為に見せるショーではないのだと実感して少し寂しい。

どこまで物なのか?-Heart bits-

6月は、帰還予定の13日が待ち遠しくそのことばかりだった。
はやぶさ君は見事に「おつかい出来たよ!」と、帰ってきた。
けな気だなぁ。
よかったなぁ。
じんわりと心の奥の方に温かいものが湧きあがってきた。
興奮より安堵感と深いねぎらいの気持ちがあった。

早くそのことを書きたいと思っていた。
けれど、とても個人的な理由で出来なかった。
パソコンが入院していた。
突然ファンエラーが発生し、熱暴走を起こして倒れる。
そのまま使い続けるとダメージが拡大するので緊急入院させた。
作品を書くにあたって自分のパソコンでなくても書けるはず。
書けるはずだけれど、その作品はぎこちないものになる気がする。
パソコンはツール以上の何かなのだと思う。

これらのことが刺激になった。
以前からチラチラと浮かんでくる考えに焦点を絞る。
どこまで物は物なんだろう?
はやぶさ君は小惑星探査機。
自分のパソコンはパソコン。
「機械=物」という、ただそれだけだろうか?
もっと大括りにして、人以外は物だろうか?
あるいは逆に、人は物にはならないだろうか?

擬人化。
簡単に使われるけれども、人の様に扱うのは、人を優位に見ている。
物を人と同類のものとみなして親近感を表現する。
たしかに、「製造物」は人によって生みだされているので劣位かもしれない。
ところが、見方を変えれば、人では出来ない事の多くを任されている。
能力で見れば生みだされたものの方がはるかに優れている。
これをして、優れたものを生み出せる人がやはり優れているとも言えるが…。
時としてこの考えを超越することがある様に思えてくる。

愛着という感覚。
物が物の枠を超えてくる。
固有の存在になってくる。
意思の疎通の図れないすべてのもの-無機物も動植物も-との関係。
ペットは何を飼っているにしてもその動物は単に動物でしかないのか?
名前を付け、共に過ごす時間を経て、死別する。
ペットロス症候群。
名前を付けた時点で、家族の一員になった時点で、その動物は仲間。
その仲間を失った悲しみ、喪失感は何にも替えがたいのだろう。
愛着はきっと、共有する時間の長さによって深くなる。
鎖につないで番犬として飼っているのは、どうだろう?
仕事の報酬としてエサを与えているのは、どうだろう?

ところで、気になる言葉がある。
物より思い出。
ふむ。
物<思い出。
書き換えると、「ん?」と、違和感が増す。
思い出は記憶であり、形がないから尊いということだろうか?
では、次の文章ではどうか。
物との思い出。
形あるものと築いた形なきものはどうするのだろう?
物≦思い出。
妥当なのはここいらへんだろうか。
では、形がないから尊いとした上で記憶を記録するのはどうだろう?
記憶を書き記した手記は「物」になる。
これを以って、比べる事にあまり意味はないと思えてくる。
そもそも、記憶は何かしらの「形」で脳内に保管されているのではないか?
脳内にスペースを有するならば、少なくとも無ではないはずだから。

壊れぬ物などありゃしない。
これを想う時、全くその通りだと思う。
この場合の「物」には「人」も含まれる。
物体としての人間は物なのであり、有機的統合体として考えられる。
長年使っていれば体のあちこちが痛みだすのも無理からぬこと。
経年劣化として老化を捉えれば、割合すんなり受け入れられる。
それでもその自然な流れに反発することで若々しく有ろうとすることも可能。
穏やかな老化を目指すことで健やかな老後を実践できると考えている。

人も物に成り得るのだし、物も擬人化や愛着によって物以上になる。
人が中心的役割を一身に背負って世界を回さなくてもいい。
自然は自然に自然を取り戻していこうとするのだろうし。
そこで行われるのが自然淘汰なのだと思うし、それを経てなお残った「何か」が自然と共に有り続けられるのだとも思う。
科学技術の結晶が「奇跡の帰還」を果たすのだから。

1日の1/3<1年の1/3。

1日24時間のうちの8時間を労働時間にあてる。
これは週40時間労働に基づいての逆算。
冒頭の文を式にすると8/24=1/3。
ここが出発点。

多くの人にとって労働時間は8時間ではないと思う。
通勤時間も労働に付加された時間。
パートタイムでの就労形態もある。
しかし、8時間を8時間「も」働いていると感じる人は多いだろうと思う。
実働8時間の他、労働に関連した時間も合わせて「仕事」と捉えがち。
往復2時間の通勤時間がかかるのであれば、仕事に10時間使う、と。

通勤時間は仕事をしなくてもいい時間。
新聞を読んでもいいし、本を読んでもいい、うつらうつらしていてもいい。
電車通勤でなら可能。
自動車通勤だとこうはいかない。
労働を行うためにする仕事=運転。
半強制的に労働に拘束された時間だと考えてもおかしくない。

労働するための場所への移動手段の差異で自由時間が減る。
このことに不平等感を抱いても仕方がない。
電車通勤に替えればいい。
自動車通勤の人は、満員電車の圧迫感から免れていることに気づかない。
また、その逆も然りなのだと思う。

基準はあくまで1/3。
1日の1/3は多く感じるだろうとこれまでに述べた。
では、1年の1/3ではどうだろう?
少ないと感じないだろうか?
1/3 / 365。
直感的に120日程度では多いとは言えないと受け止める様に思う。
これが労働時間に基づいていると考えなければ。

さて、ここまで来てタイトルとの矛盾に気づく。
1日の1/3>1年の1/3ではないのか、と。
もちろんその通り。
けれど、それが狙いでもある。

1日に占める労働時間は8時間「も」と多く感じる。
ところが、それを1年に当てはめると120日「しか」働いていない。
240日は仕事をしていない。
言い換えれば、240日「も」自由な時間がある。
これは大きい事なのじゃないだろうかと思う。

沢山働いているつもりでいても、240日は自由時間がある。
本当はもっと多い。
基準としての1/3以外に祝祭日も働いていることになるのだから。
自由になる時間に目を向けてみる。
そうすると、タイトルが見えてくる気がする。

余暇の考え方。
日々の積み重ねは忙しさの積み重ねだけではないはず。
休日しか自由な時間がないと考えるから窮屈なのかもしれない。
十分働いても240日は自由な時間が持てる。
その時間に何をするのか。
趣味でもいいし、スキルアップでもいいだろうと思う。
もちろん、自由時間なのだから思い切り休むのもいいと思う。

こんな風に考えて来ると時間の捉え方と使い方で1年は変わる。
それを1日の生活に還元出来たらステキ。
継続は力なり。
自由時間をどう過ごそうか想うとわくわくしてくる。

人生は旅なのか?

知る限りで人生と旅を重ねた最も有名な人は松尾芭蕉。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり」
直接、人生とは是旅であるとは言っていない。

月日とは永遠の旅人であり、行く年も来る年月もまた旅人であると言う。
これを人はその変えがたい流れに乗って生きていると示している様に思う。
不老不死を叶えるためには、時を止めた状態にすればいい。
つまり、生きていなければ老いも再びの死もない。

冒頭から脱線気味なので仕切り直して…。
人生が旅というのはよく使われる表現だと思う。
それはそれでいい。
旅を楽しい事傾向を強く出して使う人生ならきっと充実していると思う。
旅の持つイメージが異なっているのだろうとふと気付いた。
旅は行く前まではあれもこれもと楽しいけれど、いざ出かけるとしんどい。
それよりもまず、行こう!と決めないと行けないものになっている。
旅はそれほど身近ではない事に気付いた。

これからの季節、芯から冷える中を急ぎ足に脱衣所から露天風呂へ。
雪見の露天風呂なんて贅沢この上ないと思う。
じっくり温まった後は、シンと冷えるはずの外気にさらされてもぽかぽか。
芯から温まる、芯からほんわりできる。
思い描くとたまらない。
実際問題、いつそれを実現する事が出来るのか。
世知辛い。

人生が旅なら思い描いた様な芯からほんわりできる事があればいい。
そう考えてみる。
日々の暮らしはそんなにも不満が溢れんばかりなわけではない。
かと言って、とろけてしまいそうに嬉しい事はめったに訪れない。
なるほど。
めったにない共通点で今のご時世では人生は旅なのかもしれない。

また違った考え方をする。
旅は移動しない事には旅にならない。
空間的に移動し違った場所を楽しむのが旅だと思っている。
これに疑問を挟むとどうだろう?
時間的に推移すればそれは旅なのだと。
「流れ行き 追えど追われぬ 時と水」
川柳など詠んでみたりする。
出発したら戻りはしないの心構えで進むのが旅だとしたら。
これはとても人生と重なると思う。
けれど、そんなに単純ではないから後悔したり立ち止まったり。
たまに走って転んで笑われたかと思いきや手を差し伸べられたり。

旅の恥はかき捨てという言葉もある。
新しい場所、新しい環境、新しい挑戦がすべて「旅先」だとしたら。
不安もあるし、ドキドキもするし、ちょっと楽しくもある。
いきなり上手にできるわけないと開き直ってなんとかこなす。
ダメ出しされるだろうし、ツッコミが入ってしどろもどろになるだろう。
それだけだろうか?
褒めてくれる人、見ていてくれる人もいるのじゃないだろうか?
他人の見せ場は意外ときっちりいい面も悪い面も見る人が多い。
どちらを言葉にして伝えるかの違いだと感じる。

つらつら考えてきてわかった。
人生は旅っぽい。
もっと人を長くやって熟練したら旅だと言い切れる様になるかなぁ…。

待つ。

待ちます
いつまででも待ち続けます
これは何と強いプレッシャーなのでしょう
来ることを
戻ることを
帰ることを
まるで強制するかの様な言葉
時にそれはひどく残酷な響き

待っています
もう随分とまちわびています
その時が訪れること
それを待っています
期待があります
楽しみに満ちていると想像するからです
留まることをしらない高揚感がそれを教えてくれます

待たされています
いつまで続くのかわかりません
その時が来ることを望みながら
なかなか訪れないことに腹立たしさを覚えます
来るはずのその時はもうとっくに過ぎて
遠くへ遠くへと逃げて行きます
この時間は浪費されているのかもしれません

待つ
とても簡単な
とても単純な
改めて考えるまでもないことだと思っていました
これは間違いなのかもしれません

状態によって大きく異なるのだと気付いたのです
待つと告げる
待っている
待たされている
関係性が異なるのです
対象との距離とも言えるかもしれません
どれも定刻がくれば状態が解除されるのです

拘束された自由時間

移動時間は目的地に着くまでの自由時間
電車ならば
本を読んでいても
音楽を聴いていても
自分の好きにしていられる時間

順番待ちの時間は自由の抑圧された時間
順番が来ることも目的
ところがそこから始まることが本来の目的
受け身でいなければならない
そのことで時間が守られないことに苛立ったり
本当はもっと有効に使える時間を浪費していると思うのかもしれません

待つと告げること
告げた方も
告げられた方も
どちらも大変です
言ったのにどうして遅れるの?
待たせないようにしなくては…
そんなに縛られなくてもいいはずなのに

過ぎた時間は取り戻せません
来るはずの時間も定かではありません
楽しんで待っていたら「その時」に着いていた
その自由時間を選んで「待つ」のもいいかもしれません

老い追い。

6月10日は時の記念日。
東京天文台と生活改善同盟会が1920(大正9)年に、「時間をきちんと守り、欧米並みに生活の改善・合理化を図ろう」と制定。

これまで23本時間カテゴリに記事を書いてきたけれど、時の記念日について書いた事はなかった。
今回は少しだけ触れて本題に移ろうと思う。
時間を守ることで生活改善と合理化を図ることが結びついている。
これはなかなかに興味深い。

時間によって1日を区切られない頃を想像する。
活動するのに適した太陽の明るさになって狩りをする。
それはきっと、太陽が昇り切った頃ではなく、薄暗い頃。
まだ夜明け前。
動物たちが起き出す前、あるいは、夜行性の動物が眠りについた頃。
食べるための行動。
生きるための行動。

夜はきっと現代よりも遥かに早く訪れただろう。
もちろん火を使う技術があったはずで、暗くなってすぐ寝たとは思わない。
そうではなく、むしろ、道具の手入れや食事をするために火を用い、夜更かしのための明かりではなかったのではないかと思う。
稲作が始まり定住生活に入ってすべき事柄が増えた頃から、少しずつ少しずつ夜を侵略していったのかもしれない。
それでもなお、1日をその日のうちに終わらせていたのではないかと思う。

これは、規則的な生活と合理的な生活ではなかったのか。
24時間を細切れにして管理する現代社会よりは、リズムが負担にならない。
「時間を守らなければいけない」という基準があることで時間に支配されている。
もちろん、マイナス面ばかりではない。
全世界を時間軸によって画一的に管理できる。
今、この瞬間も世界標準時を基準として世界が回っている。


さて、本題。
時間は万人に等しく24時間で1日ということになっている。
1日を終えることで1日分老いていく。
ところが、終了時刻に定めがない。
その意味で時間は平等に万人に与えられているわけではない。
突発的な事故に巻き込まれて落とした命を考える。
それ以後、本来続いていたであろう時間は失われた。
本当だろうか?
無論、突発的事故で失われてしまった命は理由があって失われたなんて事はあり得ない事だと思う。
それに伴って来るべき時間も失われてしまったと考えるのは、命は時の経過を伴ってあるものだと考えられていることを表している。
しかし、少し待って欲しい。
命を落としてしまえば、その人は終わりなのだろうか。
「人生」という言葉に当てはめると、それ以後の行動が起こり得ないので結果も生じず終わっているかもしれない。
けれど、そこまで生きていたことは消え去らない。
創作をする人だったら、それまでに生み出した作品が残り続け、「その人」の名は語り継がれ、「その人」が残り続ける。

老いを考える。
生まれてすぐ還暦な人というのはいない。
誰もが老いていった先輩達の後を追いかけていく。
年若くして命を落とした先輩を追い抜いてしまうこともある。
子供の頃、年をとる事は成長だった。
成人してからも生涯成長なのだと思うけれど、素直にそうとも言い切れない。
老衰の現実がある。
長年使い続ける肉体には無理が蓄積される。
若々しい年配の方もいるけれど、若々しく見えるだけで年齢は重ねている。
溌剌としていても、若かりし頃と同じ様に機敏な動きをするのは厳しい。

ちょうどいい時というのは一体いつなのか。
輝かしい実績がある。沢山の協力者もいる。知恵と言えるほどの知識もある。
しかし、率先して先頭に立ち引っ張るだけの肉体的余裕はない。
取り返しのつかなさが老いかもしれない。
逆でもいい。
無茶を可能にする行動力がある。有り余ると思っている時間がある。
しかし、経験と財力と信頼とがまだまだ不十分。
可能性の塊というのが若さかもしれない。
年配と年少の間。
その時期にちょうど良さがあるのかもしれない。
それとて可能性の1つ。

例えば、年季の入ったものの良さは歳月でしか生み出せない。
これは、人として生きていてもそうかもしれない。
長生きであることはそれだけで素晴らしい。
そこに含蓄があればなおさら素晴らしい。
若くして才能を開花させるのは素晴らしい。
それを認め伸ばそうとする環境はとても素晴らしい。

いつか終わるのは同じ。
いつ終わるのかわからないのも同じ。
ならば、いつかを先延ばしにできる様に気をつけたい。
そして、何をしてきて終わりを迎えるかにも気をつけたい。

1日が24時間で終わるのは万人に等しい。
自分が自分としてその1日をどう生きるのかは自分でしか決められない。
どうやって過ごした1日だったか。
それを振り返って評価するのも自分でしかできない。
何かを残せば、気づいた人が評価をしてくれる。
それが自分の想うとおりでなくてもそれは仕方がない。
主観と客観は違うのだから。

老い追い。
生きて行くことは先人を追いかけその功績を乗り越え、次の世代・追いかけてくる人達に何かを残していく事かも知れない。
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