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<title>独り言小劇場</title> 
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<modified>2012-05-22T01:24:14Z</modified> 
<tagline><![CDATA[答えの出ない事柄を徒然に不定期に書き留めてみる場所。]]></tagline> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2007:tranquillizer</id>
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<name>tranquillizer</name> 
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<copyright>Copyright (c) 2012, tranquillizer </copyright>
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<title>予想は想像の内側？外側？</title> 
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<modified>2012-04-13T18:21:47Z</modified> 
<issued>2012-04-14T03:21:47+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2012:tranquillizer.51838961</id>
<summary type="text/plain">カテゴリを読書考とした。
これは正確な選択でない。
映画鑑賞レビューを書こうとするから。
しかし、どうだろう？
題名を知っている。
微々たるものだが少し原作の知識を持っている。
事前に何も情報を得ずに見た映画はかつて１度もない。
この意味において、映画は...</summary> 
<dc:subject>読書考</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51838961.html">
<![CDATA[カテゴリを読書考とした。<br>
これは正確な選択でない。<br>
映画鑑賞レビューを書こうとするから。<br>
しかし、どうだろう？<br>
題名を知っている。<br>
微々たるものだが少し原作の知識を持っている。<br>
事前に何も情報を得ずに見た映画はかつて１度もない。<br>
この意味において、映画は私にとって予想とのギャップである。<br>
外れても楽しめる。<br>
当たっても楽しめる。<br>
ただ、予想をつける作品との出会いが少ない。<br>
これを主な理由として映画の鑑賞法がわからない。<br>
つまるところ鑑賞のセンスがないのだと思う。<br>
<br>
ともあれ、作品を見た。<br>
事前に知っているのは、題名と原作の出だしとあらすじ。<br>
歴史的事実としてチェコ民主化運動の際用いられたヘイ・ジュード。<br>
他の情報（知識）はさほどながら、題名に期待が大きく膨らんだ。<br>
『存在の耐えられない軽さ』<br>
これだけで見てみたいと思った。<br>
原作の出だしはパンチが効いている。<br>
ニーチェの永劫回帰という考え方はニーチェ以外の哲学者を困惑させた。<br>
これで小説が始まるとは思えず、とても読み進められない自信がある。<br>
だが、幸か不幸か原作を読んだことがない。<br>
ＤＶＤで映画を見ただけ。<br>
しかも、拝借した。<br>
作品の批評などできない。<br>
どこまでも、予想とのギャップを語る。<br>
<br>
予想段階で当然ながら「存在」の意味するところが気になった。<br>
『存在の耐えられない軽さ』が題名である。<br>
耐えられないほど軽い存在は「何か？」が重要だった。<br>
事前に恋愛物であることを知っていてそう思った。<br>
愛の価値、相手の価値、自分のあり方としての価値...。<br>
価値はきっと「重み」と言い換えられそれが「存在」だろう。<br>
その程度にしか予想できなかった。<br>
薄っぺらい予想である。<br>
<br>
鑑賞後に思うところは複雑である。<br>
主人公トマシュは脳外科医。<br>
トマシュの旧知の画家のサビーナ。<br>
手術の出張先で知り合ったウェイトレスのテレーザ。<br>
<br>
箇条書きでとにかく書いてみる。<br>
・帽子に込められたハットとハート。<br>
・不意打ちだったマン・レイとリー・ミラー。<br>
・ヘイ・ジュードは、なるほど面白い取り入れ方。<br>
・切り取る生は横顔に。美は全体を含む部分に。<br>
・土地と国家（祖国）、居場所と生き（行き）場所。<br>
・言う（言わない）、感じる（感じない）、伝える（伝わる）。<br>
・個と他、平等・当分（分散・分担）と独占、自由<br>
・理解とはなんぞや。<br>
<br>
・１人の人間のアイデンティティがその人そのものに無い可能性。<br>
画家サビーナは帽子を大切にしている。<br>
祖父の祖父のまた祖父の…大昔からある帽子。<br>
その帽子を愛している自分を愛するサビーナの核心。<br>
帽子（ハット）と永劫回帰の心（ハート）にみた。<br>
<br>
・至極個人的嗅覚ながら、モノクロ写真における美の挑発。<br>
マン・レイとリー・ミラーの作品によって、美の再発見を意識づける。<br>
組んだむき出しの女性の脚。<br>
美脚の美は形であり、体は容であり、脚という型である。<br>
誰のものであってもかまわないが、誰かにしかないか、誰にもない。<br>
美は形としてあり永遠の元型である。<br>
<br>
・ヘイ・ジュードは、作中、ソ連の侵攻の場面で流れる。<br>
歴史的事実と重ね合わせているのだろう。<br>
が、その歴史的事実の全体像を詳しく知らなかった。<br>
マルタ版のジュードは女性であるとのこと。<br>
ヘイ・ジュードのフルコーラスが流れるのではない。<br>
この場面ではテレーザのことを歌っているのか。<br>
テレーザが何度もシャッターを切っている。<br>
切り出された多くが横顔であり、また、犠牲者の姿である。<br>
何かをしなければ。<br>
この想いでシャッターを切り、トマシュへの想いも見つめる。<br>
応援ソングとしての演出効果は大きい。<br>
<br>
・写真力ではなく、カメラ力。<br>
レンズ越しの世界はきっと、２色の濃淡で表現しきれる裏と表。<br>
人が横を向いた時、人はその視線の先に意識的に集中する。<br>
事はとっさに（ふいに）横を向いた時に起こるのかもしれない。<br>
・全体像も全体からすると部分であり、全体における部分は濃縮である。<br>
みんな同じであることが普通だから美しくもある。<br>
総体、まとまりとしての構成美。<br>
クローズアップして成形美を再発見するのも美。<br>
個体に宿る構成美としてのサボテン。<br>
個体に宿る成形美としての女体。<br>
存在するのは素材であり、そこにある美は１つではない。<br>
<br>
と、美に関して、今読んでいる『「かたち」の哲学』から解釈してみる。<br>
<br>
国家や思想や感情は色々書いても仕方ない。<br>
ただし、居場所・生き場所は重要である。<br>
人が存在するということは、どこかに必ず間借りしなければならない。<br>
物質としてあるのだから、居場所の確保はやむを得ない。<br>
生き場所では生活がある。<br>
明確にすることがありそれが生活に結びついていれば充分。<br>
多くを考える必要もなく生きるための行動を続ける。<br>
自然の一部に還るまで自然の中に返る。<br>
やるべきことがあるのは他のことからは自由なのだ。<br>
<br>
ところで、ここまで「存在」の素材は見えた。<br>
では、軽さとは何だったのか。<br>
１つの結論として、「存在」への軽さではなく「存在」からの身軽さ。<br>
ある１つにとっての１存在の重みは個々に異なる。<br>
例えば、大きな愛と深い愛とを比べることはできない。<br>
また、小さく浅い愛を否定することもできない。<br>
こちらの愛は善意として顕れ得るものかもしれないのだから。]]> 
</content>
<author>
<name>tranquillizer</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>考えることの多くは。</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51837054.html" />
<modified>2012-04-04T14:48:08Z</modified> 
<issued>2012-04-04T23:43:28+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2012:tranquillizer.51837054</id>
<summary type="text/plain">考えることに意味などない。
だからこそ考えられる。
この頃考えることの多くは、暗く重い。
私の場合、これはいつもと変わらない。

この頃がいつからなのか、もう忘れた。
うつ真っ只中の頃か？
違う気がする。
今はうつでないか？
それもちょっと違う気がする。...</summary> 
<dc:subject>時事</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51837054.html">
<![CDATA[考えることに意味などない。<br>
だからこそ考えられる。<br>
この頃考えることの多くは、暗く重い。<br>
私の場合、これはいつもと変わらない。<br>
<br>
この頃がいつからなのか、もう忘れた。<br>
うつ真っ只中の頃か？<br>
違う気がする。<br>
今はうつでないか？<br>
それもちょっと違う気がする。<br>
確かに薬は止められた。<br>
眠れるようにもなった。<br>
もちろん、声も出ている。<br>
だが違う気がする。<br>
もともとうつだったんじゃないか。<br>
多分、そうだろう。<br>
うつが心の風邪と言われることに違和感を覚えない。<br>
うつの時、それはこじれた時。<br>
うつでない時、それはうつっぽい自分のありのまま。<br>
通常と異常の差なんて科学ではわからないだろう。<br>
そして、自分でもわからないだろう。<br>
「無い」ものは「無い」としか言えない。<br>
通常なんてない。<br>
通常がないのだから異常もない。<br>
他から見て変わり者だとしても、それがなんだと言うのか。<br>
<br>
気の持ちようや甘えだと言われる。<br>
多分そう思うのだろう。<br>
当事者でない者にとっては。<br>
死にたいほど苦しく何もできなくなる。<br>
多分そうだった。<br>
当事者にとっても。<br>
うつの苦しみはうつの時にしかわからない。<br>
過ぎてしまうと苦しみすらも忘れる。<br>
うつ自体には悪気はないだろう。<br>
いや、病気が悪気を持っているわけもない。<br>
メンタルな病気に限らない。<br>
糖尿病でも高血圧でも「病気が」悪気を持つことはない。<br>
あるとすれば病気の気まぐれか、自分の心がけかだ。<br>
何が言いたいんだと凄まれても仕方がない。<br>
理由があるなら改善すればいい。<br>
それだけではダメだ。<br>
改善の方法があり、治す気がなければダメだ。<br>
それだけでもダメだ。<br>
何故、自分の身に起こったのかと対峙しなければダメだ。<br>
それだけでもまだまだダメだ。<br>
理由などなくても自分で受け止めなければダメだ。<br>
すべてはそこからだ。<br>
<br>
ダメの方ばかりを強調する。<br>
こうすればイイとは言わない。<br>
イイと言うと、安易にイイ方を選ぶ。<br>
これは任せることになりがちだ。<br>
自分でイイを選ばなければダメだ。<br>
やはり、ここでもダメだと言う。<br>
ダメと言われると気持ちがイイとは言えない。<br>
何故、イイがダメなのかは述べた。<br>
だが、不思議なことにダメと言われてダメを選ぶこともある。<br>
これは難しい。<br>
結論から言うと、これは必要なのだろうと思える。<br>
ダメ、イイでははかれない。<br>
結果として、有効であったと結果論でしかはかれない。<br>
ダメのダメさを知らないとイイがわからないことがある。<br>
他にも、イイが嘘っぽく聞こえることもある。<br>
イイをしてみてダメで、ダメと比べるとマシなこともある。<br>
ダメはイイのために必要だ。<br>
<br>
真ん中がいい。<br>
当然だ。<br>
痛くも苦しくもない。<br>
格別嬉しくも楽しくもない。<br>
こんなに安定していることを他に挙げるのは難しい。<br>
つまらない？<br>
結構だ。<br>
損してる？<br>
結構だ。<br>
その尺度でしか語らない人と関わるのは苦痛でしかない。<br>
満足できる人が満足を求めて生きることを否定しない。<br>
だが、尺度を他人に易々と語る人には不快感しか覚えない。<br>
１０年後、２０年後、私がどうなっていようがどうでもいいだろう。<br>
明日がどうなっているか誰にもわからないのに。<br>
身近な震災の後でも平気で言えることに閉口する。<br>
だからこそ毎日を精一杯生きろ？<br>
精一杯安定を「欲して」生きている。<br>
安定は楽しみや嬉しさを求めるのとは違う生き方。<br>
大きく失ったり、小さな楽しみに怯えずにすむ生き方。<br>
親は子より先に死ぬ。<br>
これを信じて少しも疑わない人のことを私は信じない。<br>
楽しみや嬉しさを享受できない人がいる。<br>
このことに気づかない人がいる。<br>
両者は違う次元に生きている。<br>
わかりあえようはずがない。<br>
<br>
生き方を見つけ、決めるのは簡単ではない。<br>
生きるために仕事が必要だ。<br>
長生きしても大丈夫なくらい金が必要だ。<br>
わかってる。<br>
何もしなくても歳をとる。<br>
わかってる。<br>
満足のいく仕事なんてなかなかない。<br>
わかってる。<br>
仕事をするために生きているわけじゃない。<br>
食うに困らない仕事、贅沢ができる仕事、やりがいのある仕事。<br>
何も見いだせないなら、さっさと辞めてもいいだろう。<br>
何も仕事に限らない。<br>
仕事をするためじゃない本当に生きたい理由は何か。<br>
それがないならとりあえず仕事でもしていればいい。<br>
嫌ならすべて辞めればいい。<br>
人間であることも含めて。<br>
苦しいだろうから。<br>
無理に生きている必要もないだろう。<br>
生かされている感じが嫌なら死しかない。<br>
歳をとってから病院で延命されるのとも違う。<br>
生の実感がないのはきっと誰のせいでもない。<br>
自分のせいでも環境のせいでもない。<br>
きっと、そんなもんなんだろう。<br>
<br>
小学生の頃がよかった。<br>
たぶん間違いない。<br>
はしゃいで遊んだ体験に間違いはない。<br>
何事も新鮮に映ったし憧れも多かった。<br>
キラキラしていた。<br>
自分も世界も。<br>
何も考えずとも楽しかった。<br>
出来ることが増えれば嬉しかった。<br>
褒められれば頑張ろうと思えた。<br>
子供でいられる時間は短い。<br>
その間にできることは少ない。<br>
けれどなぜか、いや、だからこそ今憧れる。<br>
あまりにも褪めてしまったし、冷めてしまった。<br>
<br>
なぜ生きるのか？<br>
なぜ死ねないのか？<br>
考えることの多くはこれに尽きる。<br>
そして答えはない。<br>
考えるから答えが出ない。<br>
「すれば」答えが出る。<br>
そしてその瞬間終わる。<br>
なぜしないのか？<br>
本題はここだろう。<br>
惰性か期待か。<br>
<br>
低空飛行で安定している。<br>
落ち代が少なければダメージは小さい。<br>
そして、青い空は高く広い方が好きだ。<br>
私の今のあり方。<br>
人生勝ち負けでも損得でもない。<br>
まだまだ乗り越えるべきことが多い。<br>
人生辞めるわけにはいかない。]]> 
</content>
<author>
<name>tranquillizer</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>小話-3-自分の範囲外の自分のこと。</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51834957.html" />
<modified>2012-03-26T17:14:01Z</modified> 
<issued>2012-03-27T02:12:36+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2012:tranquillizer.51834957</id>
<summary type="text/plain">自分の身に起こった物事に対してしか、「問題」は問題とならない。
問題は悩みと言い換えてもいい。
この意味において問題意識の高揚は、まさに他人事である。
このことが巡り巡って社会正義の実現につながると啓蒙される。
啓蒙に至るための啓発活動の時点で虚が混じる...</summary> 
<dc:subject>善と悪</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51834957.html">
<![CDATA[自分の身に起こった物事に対してしか、「問題」は問題とならない。<br>
問題は悩みと言い換えてもいい。<br>
この意味において問題意識の高揚は、まさに他人事である。<br>
このことが巡り巡って社会正義の実現につながると啓蒙される。<br>
啓蒙に至るための啓発活動の時点で虚が混じる。<br>
気付きにくいことを気付かせるはずが、気付かれたくない部分を隠す。<br>
気付かれたくないがために他の方向へと牽引する力が働く。<br>
これは恐ろしいことだと思う。<br>
<br>
例えば、犯罪被害者がいるとする。<br>
もちろん、犯罪加害者がいるから犯罪被害者がいるのである。<br>
どちらも保護されることが社会正義である。<br>
ここで重要なのは、保護のされ方が異なることである。<br>
しかしながら、実際問題このことを思うのは難しい。<br>
被害者感情からすれば、被った損害の回復は大前提にすぎない。<br>
金銭の窃盗であれば全額補償されればいいとは思えない。<br>
そして、プラスαとして「問題」となるのは加害者のありかた。<br>
法的な解決ではなくて、むしろ、道義的な解決を望む。<br>
ここで注目すべきは、解決手段が加害者の謝罪ではないだろう点。<br>
個人が、より厳密に、私人が被害者になって初めて持ちうる感覚。<br>
社会的な処遇としての加害者・被害者均衡感。<br>
この均衡感をして、社会正義の実現であると思う感覚。<br>
<br>
この例の場合、ある意味において正しいように思う。<br>
つまり、心情に対して富の再配分のような均衡感の導入。<br>
これは言うなれば、実質的に加害者保護が手厚いと感じるゆえ。<br>
被害者は平穏を奪われ、心身あるいは金銭的なダメージを背負う。<br>
にもかかわらず、被った損害「しか」救われない。<br>
少なくとも、そう思われる要因は現在も多いと思われる。<br>
これに対して、加害者は刑事事件にならない場合もあり得る。<br>
加害者に罪があっても問われない。<br>
しかし、被害者には「罪なる行為」が現実問題として降りかかる。<br>
この不均衡感は当事者にしか抱けない理不尽さを思うに十分。<br>
<br>
この例の場合、ある意味において正しくないように思う。<br>
人権や公平の理念にあてはまるものとそうでないものがある。<br>
つまり、失ったものの埋め合わせと、得たものの返還の大きさ。<br>
失ったものは、実質的に失ったもの以上を失っている。<br>
得たものは、実質的に失ったもの以上のものは得ていない。<br>
ここに不均衡がそもそも生じるのであって、相殺はされえない。<br>
心情へは配慮こそ可能であれ、補償はできない。<br>
起こってしまった出来事の取り返しは誰にも何にも不可能。<br>
代替物では補いきれないものを望むのは、これも不均衡である。<br>
不利益がために利益を得ることは社会正義ではない。<br>
<br>
人には、気付く前に何かしらを感じ取る能力があるように思う。<br>
感じ取ったものの輪郭が不鮮明なところに知識が乗る。<br>
そして、その「知識」は「言葉」や「文字」でのみとらえられる。<br>
理念は説明されなければわからない。<br>
言葉や文字はあくまで、その理念を伝える媒体にすぎない。<br>
鵜呑みにしてはいけないことには気づけない。<br>
ゆえに、啓発活動がなされる。<br>
<br>
事実や真実が虚ろでも、当事者にとって現実はあるように思う。<br>
そして多くの場合、現実は思った以上に重くのしかかる。<br>
その原因は、現実そのものの重みではなく虚ろな真実かもしれない。]]> 
</content>
<author>
<name>tranquillizer</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>至極個人的なこと。-Heart bits-</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51830556.html" />
<modified>2012-03-14T07:19:31Z</modified> 
<issued>2012-03-11T23:07:44+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2012:tranquillizer.51830556</id>
<summary type="text/plain">あえてこんな日に書くことでもない。
3.11。
もっと「その日」にあった事を書けばいい。
2011⇒2012。
だが、本当にそれで満足できるだろうか？
+366。
今日、書くべきことは既に書いた。
確実に時間は流れ去り、それ以上のことはない。
それで充分だ。

記憶は確...</summary> 
<dc:subject>Heart bits</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51830556.html">
<![CDATA[あえてこんな日に書くことでもない。<br>
3.11。<br>
もっと「その日」にあった事を書けばいい。<br>
2011⇒2012。<br>
だが、本当にそれで満足できるだろうか？<br>
+366。<br>
今日、書くべきことは既に書いた。<br>
確実に時間は流れ去り、それ以上のことはない。<br>
それで充分だ。<br>
<br>
記憶は確かなものではない。<br>
忘れてはいけないものを忘れるし、入れ替えさえする。<br>
記憶は経過する時間の中で否応なしに書き換わる。<br>
知らなかった「その時」のことを後出しでたくさん詰め込んだ。<br>
必要なものがある時、往々にしてそこに必要なものはないものだ。<br>
そして、たいていの場合、それでも何とかなる。<br>
たいていに当てはまらなかった場合、それは不運でしかない。<br>
それ以上でも、それ以下でもない。<br>
そこに原因も理由も意味もない。<br>
ゆえに、そこには結果もなく、事実もない。<br>
よって、過去もない。<br>
では、真実はどこにあるのだろう。<br>
<br>
真実などどこにもない。<br>
それだけに限らず、むしろ、「あるもの」が「あること」の方が稀だろう。<br>
時間があるのも、お金があるのも、正義があるのも同じ。<br>
あると思う人にとってはあるにすぎない。<br>
もはや根拠などない。<br>
あることに違和感すら覚えなくなって過ごす。<br>
自由でなくても、平等でなくても、死ぬまで生きる。<br>
これだけが誰にとっても同じこと。<br>
それ以外に「あるもの」はなんだろう。<br>
<br>
私が抱く不安や不満や不平など、取るに足らない。<br>
その取るに足らないさまも、そのまま不足と言える程。<br>
所詮「不」で済むくらいの小さなこと。<br>
だからなんだ。<br>
それでも苦しい。<br>
小ささじゃない。<br>
大きさじゃない。<br>
比べたってしょうがない。<br>
切羽詰まってる。<br>
わかってもらえるかなんて問題じゃない。<br>
満たされたくて「不」でいるんじゃない。<br>
待っているから「未」でいるんじゃない。<br>
「無」になってほしい。<br>
自分に。<br>
「無」になりたい。<br>
自分が。<br>
<br>
死んでいった人がいる。<br>
何万年も前から。<br>
その多くが、生まれる前から死んでいた。<br>
死んで行く人がいる。<br>
何万年も後まで。<br>
その多くが、死んだ後に生まれてくる。<br>
生きている人がいる。<br>
その多くを知らずに死んでいく。<br>
お互い様。<br>
自分以外の多くの人は単なる数ですらない。<br>
向き合って話す人がいる。<br>
その人は「どこ」にいるのだろうか。<br>
その人は「誰」だろうか。<br>
それは「何」だろうか。<br>
自他しかない世界で何が「人」だろうか。<br>
何が人を者にして、人を物でなくしたのか。<br>
それを知っても納得しない。<br>
納得しても私は私以外にならない。<br>
私が私である限り、私は他を理解できない。<br>
そして、私が他を理解できない限り、私は私を掌握できない。<br>
誰しも同じことだろう。<br>
稀な「あること」をここにも見つけたかもしれない。<br>
<br>
稀な「あること」なんて２つで充分。<br>
誰も何もわからないまま生きて死ぬ。<br>
名言を思う。<br>
歴史は繰り返す。<br>
そのままそれが正しいと知る。<br>
ずっと繰り返しているのに繰り返さずにいられない。<br>
つまりは、間違いなんてない。<br>
突飛なことも同じ輪の中に吸収される。<br>
間違いは、きっと「間」を違えただけ。<br>
正解か誤解か。<br>
するはず、来るはず、ただ、「その時」を誤っただけ。<br>
するのは決まっていたのだろうし、来るのも決まっていた。<br>
始めなければ終わらない。<br>
けれど、終わらなくても始まっている。<br>
すべてが終わるのを待っていると始めるのには遅すぎる。<br>
<br>
私が私として生まれた理由はない。<br>
偶然そうだったにすぎない。<br>
私が私を終える理由は今のところない。<br>
死を自ら引き寄せたにしてもそれは理由ではない。<br>
動機は理由ではないし、死因も死の理由ではない。<br>
死は死後に訪れそこに理由を残さない。<br>
ただただ、『死んだから「死んだ」』にすぎない。<br>
そうでなければ偶然生まれたのに偶然死ねなくなる。<br>
これらの偶然に意味はない。<br>
ところがそうは思えない。<br>
そう思えないことの理由づけはできる。<br>
できるからこそ辛い。<br>
だからこそ、死から始める思想が生まれる。<br>
さりとても産まれるも生まれるも人が「つくって」いるものだ。<br>
「情」がカタチを持たなくて本当によかった。<br>
その代わりかそのせいか、争いが尽きることはない。<br>
<br>
人が生まれ人が死ぬ。<br>
一連の時間経過で１つの世界が消える。<br>
この積み重ねでどれだけの世界が消えてきたのか。<br>
存在している場所は無限ではない広がりなのだと知る。<br>
まずはそのまま体のことでいい。<br>
つながることはできても、とけあって１つにはならない。<br>
混じり合う宇宙にも限りがある。<br>
これはそのまま心のことでいい。<br>
雰囲気を察しても、言葉に表せないものの理解は得られない。<br>
これらの境界に有限と無限が共存する。<br>
高揚感は有限だから頂を求める。<br>
孤独感は無限だから底を求める。<br>
そしていつしか安らぎを求め個へと向かう。<br>
<br>
人は固まり。<br>
有限な固まり。<br>
生を終えると固まりが崩れる。<br>
死が悲しいんじゃない。<br>
いなくなることが悲しい。<br>
無くなることが悲しい。<br>
見えない、触れない、感じとれない。<br>
それらが悲しい。<br>
だから、いてほしい。<br>
いるだけでいい。<br>
<br>
無くなった分を埋め合わせなくていい。<br>
元々は平坦だった。<br>
時間をかけて増やそうとしてきた。<br>
無くなることは元に戻る過程。<br>
１つ無くなった分、他が２つ頑張らなくていい。<br>
１つに負える分は１つ分。<br>
それぞれに１つ分の世界がある。<br>
交換なんてできない。<br>
考えなくてもわかるはずだった。<br>
１つを産みだすのに２つの努力が必要。<br>
そうやって減らしながら増やしてきた。<br>
それが人の生物らしい尊厳だった。<br>
<br>
名を上げようとは思わない。<br>
けれど、書いてしまえば名残りは残る。<br>
それが私の世界の名残り。<br>
私が誰であってもかまわない。<br>
可能性として文字を操るものとして、１つの世界を残す。<br>
生きる意味は名残りにしかならない。<br>
それ以外には有り得ない。<br>
少なくとも私にとっては。<br>
私でなくとも誰かがするだろう可能性の実践。<br>
そんなことを私も他人も毎日しているんだろう。<br>
生の喜びは生をつなぐこと。<br>
おいしく食事をいただくこと。<br>
それ以外のことはおまけみたいなこと。<br>
<br>
散々書いてきたけれど書ききれない。<br>
どこが終わりかわからない。<br>
けれどわかることがある。<br>
本当の部分は書いてない。<br>
裏と表でできてない。<br>
そんなに簡単なものじゃない。<br>
割り切れないから書いたんだ。<br>
全部に「でも」をつけられる。<br>
でもの分が重いんだ。<br>
暗いけれども、本当はもっと暗いんだ。<br>
だからって明るくしない。<br>
無理に明るくしようとすれば、そこにあるのはウソになる。<br>
本当を書かないこととウソを書くことは違う。<br>
言葉にできないこと、伝わらないことには素直に沈黙するしかない。<br>
何となくわかりそうなことを全力で伝えようとする。<br>
他の世界ではなく、自らの世界を信じる。<br>
それが私の世界だと信じる。]]> 
</content>
<author>
<name>tranquillizer</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>死刑制度あれとこれと。</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51825838.html" />
<modified>2012-02-22T13:25:12Z</modified> 
<issued>2012-02-22T22:23:58+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2012:tranquillizer.51825838</id>
<summary type="text/plain">制度自体に賛成反対を議論するのは大切だと思う。
刑の確定を以って被告人は死刑囚となり命と不可分の罪を負う。
その罪を処罰し、刑の執行を以って命が消える。
それと同時に重大犯罪者だった人は死刑囚として存在が消される。
これら一連の事実は重大だと思う。
現実...</summary> 
<dc:subject>生と死</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51825838.html">
<![CDATA[制度自体に賛成反対を議論するのは大切だと思う。<br>
刑の確定を以って被告人は死刑囚となり命と不可分の罪を負う。<br>
その罪を処罰し、刑の執行を以って命が消える。<br>
それと同時に重大犯罪者だった人は死刑囚として存在が消される。<br>
これら一連の事実は重大だと思う。<br>
現実的には、死刑制度を存続させても執行制度を変えなければ意味がない。<br>
刑が確定してもなお、死刑囚として生存させておく大臣がいる。<br>
法務大臣は行政のトップなのであって、執行命令権者である。<br>
大臣自らが執行するわけではない。<br>
しかし、刑事訴訟法に定めがあり、法務大臣の命令なしに執行されない。<br>
法規定に厳格であるならば、判決確定から６月以内に執行せねばならない。<br>
そこで問題なのが「特別な理由がない限り」という点。<br>
判例によっても６月以内の執行は努力目標とされている。<br>
あわせて書いておくと、執行命令から５日以内の執行は法規定がある。<br>
<br>
死刑制度よりむしろ執行制度の骨抜きな状態を是正しなければ仕方がない。<br>
この状況下にあって「制度は抑止力である」と、言ってはいられない。<br>
強制的に死に至らしめないのであれば、終身刑に変えるべきだろう。<br>
つまるところ生か死かの問題なのだ。<br>
生かしていていい存在か否か。<br>
注意が必要なのは、これは社会を構成する国民にとっての問題である。<br>
国家からするとそこに問題はない。<br>
犯罪者であっても社会に復帰し再びその一員となる更生を想定している。<br>
法の下に平等である。<br>
<br>
遺族感情に配慮して死刑と言うのはだから的外れである。<br>
遺族がどう思おうと、国家の構成員として犯罪者も大事なのだ。<br>
大事だからこそ更生して善く生きさせようとする。<br>
ここが大事なのだと強く思う。<br>
罪を犯して捕まり、そこで何もなく社会復帰ではない。<br>
罰を受けて更生しているものと「みなして」復帰させる。<br>
実際的には儀礼的に映るかもしれないが、ともかく仕組みに沿っている。<br>
法によって定め、定められた仕組みに沿って進められればいいのである。<br>
法とは建前である。<br>
本音で進めようとすると立ち行かなくなるからこそ「法」で形式化する。<br>
まさに、システマティックであり、実を取らない。<br>
<br>
ところが、制度として築き上げられたものは所詮客体と言うべきか。<br>
使う主体としての人がその効力に不信を抱けば使えない。<br>
そこで、解釈を変えたりする必要が出てくる。<br>
その表れが裁判員制度なのだろう。<br>
職業裁判官はこれまで述べたような「法側」の人間である。<br>
それでは適用される側の気持ちにはなじまない。<br>
そこで、適用されることしか念頭になかった人間を参加させる。<br>
このことにより一応は均衡感を取り込んだ制度ができた。<br>
それでいいのである。<br>
裁判員の意思が反映されるか否かは問題ではない。<br>
制度を築き上げる途中であっても殺人事件は絶えないのだ。<br>
適用する制度を早く築かなければ裁けない。<br>
<br>
制度を築く上でも倫理観が希薄に感じる。<br>
そこに関わる専門家の倫理観も必ずしも尊いものではない。<br>
検察官が証拠をねつ造するならば、冤罪は免れず、無実で刑に服する。<br>
裁判官が法側から大衆側へ下りなければ納得できない。<br>
制度を築き仇討を昇華したかに見えても、その実はないのだから。<br>
<br>
根本的な問題として、罪は死によって償われるのか。<br>
逆に、終身隔離は償いになるのか。<br>
どちらにしても被害者が亡くなり、戻ってこない以上解決にならない。<br>
そして、これらのことは被害者遺族にならない限り切実な問題ではない。<br>
裁判員となって裁く権限を与えられる道理ではないはずである。<br>
だが、法の下に平等なので裁かれる可能性とともに裁く可能性もあるのだ。<br>
<br>
このような賛否両論出る議論に正解はない。<br>
安心して暮らせなくても（制度があっても安心できないが）いいなら話は別。<br>
罪を制度化しなければ刑もない。<br>
考えてみればおかしな話だと思う。<br>
例えば、ツアーでアフリカに行く。<br>
野生動物に襲われて命を落とす。<br>
あり得ない話ではなく不思議はない。<br>
旅行会社に落ち度がなかったかの話にはなるだろう。<br>
野生動物の処罰について言及されない。<br>
通勤・通学途中、意味不明な言動の暴漢に襲われ命を落とす。<br>
犯罪者の処罰をどうするべきか云々。<br>
何によって命を落とさせられたかが重要なのだ。<br>
<br>
刑法第百九十九条 　人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。<br>
殺人の罪は、人を殺した者と人であることを構成要件にしている。<br>
罪は人にのみ与えられている。<br>
このことから、いつから人か。いつまで人か。どこまで人か。が議論される。<br>
始期終期範囲。<br>
これもまたおかしな話で、人形の人でなしがいることを認めている。<br>
にもかかわらず、人らしさは明確に示されない。<br>
どこまでも制度であり建前である。<br>
<br>
まとめとして、死刑制度に賛成か反対かを議論する必要のない平穏がいい。]]> 
</content>
<author>
<name>tranquillizer</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>痛みって何なのさ。</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51817129.html" />
<modified>2012-01-21T13:36:06Z</modified> 
<issued>2012-01-21T22:36:06+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2012:tranquillizer.51817129</id>
<summary type="text/plain">ある人は痛みについてこう語ったそうだ。
「歯が痛いとき、その痛みをじっと見ている自分がいる」
聞いた話を書いた文章を読んで得た情報なので詳細はわからない。
けれども、今回ちょっとこの発言に寄り添える気がした。

突然、前触れもなしに左手首に痛みを覚えた。...</summary> 
<dc:subject>医療</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51817129.html">
<![CDATA[ある人は痛みについてこう語ったそうだ。<br>
「歯が痛いとき、その痛みをじっと見ている自分がいる」<br>
聞いた話を書いた文章を読んで得た情報なので詳細はわからない。<br>
けれども、今回ちょっとこの発言に寄り添える気がした。<br>
<br>
突然、前触れもなしに左手首に痛みを覚えた。<br>
ところが、この痛みは今となって考えるに痛みだったのだろうか。<br>
痛みに似た、しかし、何かしら違う感覚だったように思える。<br>
簡単に違和感と言えばその通りだが、痛みに似た何か。<br>
痛みはいつから痛みになるのか。<br>
<br>
１つ、痛みについての”あるある”を。<br>
誰しも経験があるだろう足の小指を物の角にぶつける原因。<br>
「固有感覚という無意識下での体性感覚で人は自分の体をなんとなく意識して」いる。けれど「それは必ずしも正しくはなくて、そのズレで端っこはいろいろとぶつけたりしやすい」と、ＮＨＫ総合『解体新ショー』で回答されたという。<br>
※固有感覚:体の様々な部位の位置する場所を感じているという"無意識"。<br>
※体性感覚:感覚器が外からはっきり見えず、皮膚・筋肉・腱・関節・内臓の壁そのものに含まれる。<br>
つまり、体の端にある足の小指は、脳も場所が曖昧にしか把握できないからぶつける。<br>
<br>
さて、手首の痛みはどうやら体性感覚の領域だろう。<br>
手首という関節領域。そして、痛み。<br>
整形外科に掛かった。<br>
手首が痛い原因の特定のためレントゲン撮影。<br>
骨折やヒビ等の疑いが否定された。<br>
腫れているし関節炎ということだった。<br>
内科に掛かった。<br>
赤く腫れているが、発熱・倦怠感等の全身症状がなく感染性関節炎は否定。<br>
左手首だからという理由かはわからないが血栓性静脈炎も否定。<br>
繰り返すようなら血栓性静脈炎かもしれないから厄介。<br>
ともあれ、消炎鎮痛剤と患部固定で様子を見ることに。<br>
<br>
ふむ。<br>
診察の結果はどうあれ対症療法で痛みが和らいだので安心ではある。<br>
わからなくても痛い。<br>
わかっても痛い。<br>
となると、とにかく痛くないようになればええねん。と、思う他ない。<br>
痛い時問題なのは、原因がわかったとて痛みが消えるわけではないこと。<br>
逆に言えば、原因がわからなくとも痛みが消えれば問題は消えること。<br>
<br>
ここで、冒頭の痛みをじっと見つめる自分の話。<br>
今回の痛みで最高潮だったのが午前３時過ぎ。<br>
動かさなくても痛い。<br>
手首で脈動を感じ、ドクンドクンと痛みが襲う。<br>
動かしても動かさなくても痛い。<br>
汗が噴き出しやたらと熱く感じる。<br>
そんな中、ふいに冷静になった。<br>
「この痛い部分を無くすか、痛みを感じる自分を無くすかのせめぎ合いだ」<br>
結論として、お尻の下に手首を潜り込ませることで妥協した。<br>
「見えんようにしたし、あとは痛いと思わないことにしたらええねん。寝よ」<br>
よくわからないが関西弁で自分に決着をつけた。<br>
<br>
痛みは消失が望ましい。<br>
痛みを見つめて思いついたのが痛みの根本から無くしてしまう。<br>
その為には、患部を無くすか、痛みを感じる自分をも無くすか。<br>
痛みに苦しむ時、自分はきっと客体で痛みが主体性を持っている。<br>
痛みは、痛みを発動すべく行動するから痛いのだろう。<br>
その客体として痛みを感じる自分がいる。<br>
と言うのも、普段痛みを感じないのは痛みの原因がないからではないか。<br>
痛いのが通常であれば、自分が痛みの主体で痛くしているのかもしれない。<br>
けれどもそうではない。<br>
もちろん慢性痛はあろうが、原因があって痛いのなら通常とは違う。<br>
この場合、処世術の様に自分を痛みの客体として痛みを受容し日常化する。<br>
痛みに対して主体性を持った自分の行動はでき得るだろう。<br>
何より痛みの原因を喚起させないことに尽きる。<br>
<br>
痛みは何故あんなにも強烈な痛みなのか。<br>
瞬間的な痛みの強さは上に記した足の小指が物語る。<br>
この場合、脳があまりよく把握できていないから警鐘を鳴らすのだろう。<br>
そう思ってもあんまりな痛みではないか。<br>
言うなれば、威嚇射撃にもかかわらず命中している様なもの。<br>
しかも機関部に大打撃と言っていい。<br>
「ｲﾂｩｩｩー」っと、声にならない声を出してうずくまり涙目。<br>
やり場のない怒りを覚えて拳を固めるも力なく下ろすしかない。<br>
少しの間をおき「なんでこんなに痛いんだ」<br>
<br>
きっと、足の小指は寂しがり屋なんだと思ってみる。<br>
場所もしっかり把握されない。<br>
足の小指のおかげでと感謝されることも滅多になさそう。<br>
感謝のされようからすると、手の指はきっと花形に違いない。<br>
それに比べて足の小指の大舞台はどうだ。<br>
ぶつけたときに思い出されるくらいしか思い浮かばない。<br>
せめてこの時とばかりに張り切るも空回っている。<br>
こんな風に痛みを見つめると少しは笑い話にもなる。<br>
痛いけど。]]> 
</content>
<author>
<name>tranquillizer</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>色眼鏡をいかに外すか。</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51810792.html" />
<modified>2011-12-26T15:06:50Z</modified> 
<issued>2011-12-27T00:06:50+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2011:tranquillizer.51810792</id>
<summary type="text/plain">例えば、消しゴムは使いきれるか？との問題提起をする。
この話題に乗れる人と乗れない人がいる。
どちらに対しても良し悪しは決められない。
しかしながら、乗れる人を好ましく思う。
この時点で「好ましい」という色眼鏡がかかっている。
もし「つまらん奴」と思った...</summary> 
<dc:subject>こころ</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51810792.html">
<![CDATA[例えば、消しゴムは使いきれるか？との問題提起をする。<br>
この話題に乗れる人と乗れない人がいる。<br>
どちらに対しても良し悪しは決められない。<br>
しかしながら、乗れる人を好ましく思う。<br>
この時点で「好ましい」という色眼鏡がかかっている。<br>
もし「つまらん奴」と思ったとしても言わなければいい。<br>
乗れる相手でなくても、こう言われたらどうだろう？<br>
「何か、消しゴムって気がつくとどっか行ってるわ」<br>
なるほど、この意味で私も使いきった経験がない。<br>
実生活上でのある種の答えが出た。<br>
だが、この意味での問いかけではない。<br>
話が噛み合わなくとも会話が成立する。<br>
ところが、こう来るとどうにもならない。<br>
「消しゴムが使いきれるか？だから何なの？」<br>
<br>
他の例として、絵画展に出かけた場合を考える。<br>
目玉の作品というのが用意されている。<br>
下世話な話、相当高価である。<br>
ここで色眼鏡がかかっている。<br>
相当の絵を期待するけれど、基準が貨幣である時点でそもそも不安定。<br>
１万円が１万円の価値を持ち続けていればいいが、そうではない。<br>
「今の金額に換算して」とのフレーズを思い出すとわかりやすい。<br>
それは置くとして、市場価値が絶対的指標でないことを忘れがち。<br>
市場価値の高い物が芸術的価値として高いのではない。<br>
芸術的価値は、「芸術に対して」価値があること。<br>
芸術に対して価値があることは「市場価値としても」価値がある。<br>
第一義的には、芸術が芸術に貢献したことの価値だと思う。<br>
芸術的価値を英訳すると２通り出る。<br>
・artistic merit 　メリットは称賛に値する価値<br>
・artistic value　ヴァリューは実際的な有用性・重要性からみた価値,値打ち<br>
美術品を見に行くのか芸術品を見に行くのか混同することがある。<br>
どちらかとして割り切れるかどうか難しい。<br>
美術品であれば、「特別な絵だからきっと高価だろう」でいい。<br>
芸術品であれば、「特別な扱いを受けるのも納得」がいいのかもしれない。<br>
高価であると言われなくとも、「特別」であると知らされる（感じさせられる）。<br>
その特別が何に根差すのかを確かめに見に行くのだから。<br>
<br>
さて、色眼鏡がかかることは良いことか悪いことか。<br>
それ以前に、色眼鏡とは何か。<br>
その後、色眼鏡は何故かかるのか。<br>
色眼鏡がかかるのは良いことか悪いことかへと順を追いたい。<br>
<br>
色眼鏡は、先入観のような概念、あるいは、サングラス。<br>
必要だから用いることが多いのだろう。<br>
先入観は予備知識を持つことで理解を促進するかもしれない。<br>
しかしながら、知識などに捉われると偏見につながるかもしれない。<br>
このことをサングラスが象徴的に物語るのではないか。<br>
強い陽射しを防ぐけれども視界が悪くなる。<br>
<br>
色眼鏡がかかるのは何故だろう。<br>
かけたからと言えばそれまでだが、では、何故かけたのか。<br>
円滑に進めたい。<br>
対象への理解の補助的作用としてかける。<br>
そのかけ方がまずいと問題が発生するのではないか。<br>
理解を妨げるのは、予備知識を吟味しないゆえか。<br>
鵜呑みにすると判断基準が自身の内側に根付かない。<br>
よって、付随的な一般化された基準に頼ることになる。<br>
<br>
結局のところ色眼鏡は良いのか悪いのか。<br>
単純化すると、良い時も悪い時もあるし、関係ない時もある。<br>
対象物に対して直感的に「いい！」と思う時や「好き」と思う時、関係ない。<br>
そして、それ以上に明確な評価を下せないだろう。<br>
精査し、分析し、芸術としてその成り立ちを解明するのでなければ。<br>
好きな絵でないけれど技法などが素晴らしく芸術的価値は高い。<br>
このような価値判断をする評価者は専門家でないと難しそうに思う。<br>
だがどうだろう、専門家は芸術的価値が高いけれど嫌いな絵はないのか？<br>
この疑問はそこに色眼鏡の存在を確かめなければ解決しなさそうだ。<br>
そして、その対象たる専門家でない自分では確かめようがない。<br>
ただ、「専門家なら」という色眼鏡をかけて思いを巡らせるだけである。]]> 
</content>
<author>
<name>tranquillizer</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>小話-2-大学が欲しい人材。</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51809293.html" />
<modified>2011-12-21T22:31:24Z</modified> 
<issued>2011-12-21T00:00:57+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2011:tranquillizer.51809293</id>
<summary type="text/plain">わからないことがあまりにも数多くある。
この頃は、恥ずかしさを覚える以上に申し訳なく感じる程。
こんなだからなのだろうと納得させたことがある。
学士入試の失敗である。
結果が出たのは１月以上前。
２０００字の小論文と面接試験だった。

小論文の設問は「リ...</summary> 
<dc:subject>学び</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51809293.html">
<![CDATA[わからないことがあまりにも数多くある。<br>
この頃は、恥ずかしさを覚える以上に申し訳なく感じる程。<br>
こんなだからなのだろうと納得させたことがある。<br>
学士入試の失敗である。<br>
結果が出たのは１月以上前。<br>
２０００字の小論文と面接試験だった。<br>
<br>
小論文の設問は「リスク社会と科学技術の関係」について考えを述べよ。<br>
正直、真剣に考えたことのないテーマだった。<br>
リスク社会を定義することから始めて、１９００字程度で書いた。<br>
論理的に記述できたとは思うもののいい内容かどうかは不明。<br>
尤も、小論文の出来栄えに関わらず面接で不合格となったのは確かだろう。<br>
<br>
面接では真っ先に志望動機を問われた。<br>
（ちなみに、福祉系大学の臨床心理専攻コースを受験）<br>
学問したい旨を伝えたが反応は薄かった。<br>
面接が進むにつれ残念な気持ちでいっぱいになっていった。<br>
<br>
以下、Qが面接官Aを私の発言とする。<br>
Q.年齢が高いけれども就職はどう考えていますか？<br>
A.専門を活かした職場を希望します。病院でも施設でも。<br>
<br>
Q.法学部卒なので単位認定が厳しい。２年で卒業は難しい。どうしますか？<br>
A.もちろん２年で終わるように取り組みます。<br>
<br>
Q.終わらない場合を訊いてます。３年かかったらどうしますか？<br>
A.どうしてもそうならざるを得ないなら仕方がないです。でも、終わるように取り組みます。<br>
<br>
Q.２年で終わらないと困ることでも？<br>
A.できるだけ年限で終わらせたいと思うものだと思いますが…。別段の理由はないです。<br>
<br>
Q.覚悟を持たないとだめです。３年かかった時と２年で終わらせる覚悟と。<br>
 とにかく卒業まで３年。年齢がさらに高くなる。就職は非常に厳しい。どうしますか？<br>
A.はい。あの、すいません。大学は就職するためにあるのでしょうか？<br>
<br>
Q.大学で勉強だけして後のことは考えていないと？<br>
A.学問分野に興味を持って学びたいから受験するのではいけませんか？<br>
<br>
Q.こちらも受け入れるからには責任がある。後の事を考えてもらわないと困る。<br>
A.そうですか。ですが、学んで身に付けたものを活かす考えなのに現時点でわかるでしょうか？<br>
<br>
Q.計画性をもった行動をとることも社会人として必要な事だよ。お勤めしていらっしゃいますね？<br>
A.はい。縁あって仕事させていただいてます。<br>
<br>
Q.今のご時世でね、縁あって仕事できてるならそちらを大事になさい。<br>
A.え～と、つまり、学びたい思いは受け入れられないということですか？<br>
<br>
Q.そうは言っていません。そうそう、志願書に声が出なくなっと書いてある。どういうことです？<br>
A.志望動機の１つです。心と体のつながりを考えさせられました。学びたいテーマでもあります。<br>
<br>
Q.具体的には…？<br>
A.腹に据えかねる事があって大声で反論しました。３日程全然寝られず声が出なくなっていました。<br>
<br>
Q.ふむ。それで？<br>
A.病院に通うようになってそれが４年くらいですか。段々と声が出るようになっていました。<br>
<br>
Q.ふむ。それがきっかけで勉強したいと。<br>
A.はい。それだけではないですが、強い動機にはなっています。<br>
<br>
Q.なるほど。もしですよ、これから先、また声が出なくなったらどうしますか？<br>
A.え？いや、どうしますかと言われても…。なんとも言えないです。<br>
<br>
Q.色々支障があるでしょう？<br>
A.そうですね…。そうならないようにこれまでの事を考えたり、専門知識を学びたいのですが…。<br>
<br>
Q.そうですか。はい、結構です。<br>
A.ありがとうございました…。<br>
<br>
印象に残っていて忘れられない部分はこんなやりとり。<br>
これは一体何だったんだろう？<br>
試験日当日から今でも解決できずにいる思い。<br>
ともあれ、大学が欲する人材でなかったのだと納得はしている。<br>
<br>
歳はとるもんじゃないなとか、大学はもはや学問の場ではないのだなとか。<br>
思ったことは多い。<br>
そして、それらが全部寂しい思いにつながっている。<br>
その結果として、１つの決意と１つの反骨精神の綯い交ぜを抱いている。<br>
同じ大学の通信教育部で志望する学問をしよう。<br>
あてつけの様だが学びたい気持ちに嘘はないし、面接官だった教授の講義に興味がある。<br>
通信なら毎週顔を合わせるわけではない。<br>
お互いにさほど嫌でもないだろう。<br>
<br>
おしまいにこれは明記しておかなければならないだろう。<br>
合否通知書にはこう書いてあった。<br>
今回、遺憾ながら意に沿う結果をお伝えできませんでした。<br>
この文面と後期学士入試の日程とが印刷されたＢ５用紙１枚。<br>
これが学士入試のすべてだった。<br>
<br>
通知書を見た時思わず呟いた言葉は忘れないだろう。<br>
「もう一度受験して面接受けたら何か変わるんか？」]]> 
</content>
<author>
<name>tranquillizer</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>小話-1-大学の勉強。</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51808884.html" />
<modified>2011-12-20T15:02:07Z</modified> 
<issued>2011-12-19T01:48:14+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2011:tranquillizer.51808884</id>
<summary type="text/plain">大学での勉強とは何だろう？
学部学科での専門科目の他、一般教養がある。
教養として身につけるべき教養に線引きは出来るだろうか？

以前、首都圏のある大学のシラバス（講義情報）がネットで話題になったそうだ。
「正しい仮名づかいと送り仮名の練習」や「句読点・...</summary> 
<dc:subject>学び</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51808884.html">
<![CDATA[大学での勉強とは何だろう？<br>
学部学科での専門科目の他、一般教養がある。<br>
教養として身につけるべき教養に線引きは出来るだろうか？<br>
<br>
以前、首都圏のある大学のシラバス（講義情報）がネットで話題になったそうだ。<br>
「正しい仮名づかいと送り仮名の練習」や「句読点・表記符号の使い方」「分数・少数の計算方法」など。<br>
中学校や高校で履修する内容だったことから、「何のために大学行くのか」「高卒のほうがマシだ」などの批判があったとされる。<br>
これに対し、批判された大学の学長が「現実の学生と向き合い、学力の不足する大学生に対する補習教育に真正面から取り組む姿勢が本学の特色」と週刊誌に反論を掲載。<br>
<br>
これは少なからず考えさせられる。<br>
ここで批判されるような講義を大学で受けなかったからかもしれないが、いつも使っている日本語が正しい日本語かどうかすこぶる怪しい。<br>
正しい仮名づかいを教えてもらえるなら大変ありがたい。<br>
また、句読点を打つ位置についても確実に使えているとは言い難い。<br>
そもそも、句点はさておき、読点の打ち方を習った覚えがない。<br>
決まりがあるのなら習っておきたい。<br>
勉強は習って邪魔にはならない。<br>
考える段階で知識が邪魔になったり、要素が煩雑で収拾をつけられなくなることがある。<br>
考えを表現し、思考する道具を万端に整えるのは批判される事柄だろうか？<br>
<br>
さて、読み書きだけではない。<br>
分数や少数の計算にも触れておきたい。<br>
未だもってわからないことがある。<br>
3/4と0.75が同じなのはいい。<br>
2/3と同数を少数で正確に表せないのがわからない。<br>
１個のケーキを３人で分けて１人分を表す問題。<br>
1/3でいいのならいい。<br>
１人分がどの程度の量かもいい。<br>
実際生活において、大きさが違っても３つに分ければ１人分は1/3。<br>
これは納得できる。<br>
しかし、だ。<br>
それを少数で表すと、割り切れずに四捨五入の技が必要になる。<br>
実際にはナイフにクリームやスポンジが付いているかもしれない。<br>
よって、１人分の量が正確に表せなくてもいい。<br>
これは1/3にも含まれている事実だろう。<br>
けれど、1/3と0.333...はどうだろう。<br>
１つに復元する際に１になるのと0.999...とではしっくりこない。<br>
だからと言ってこのことが実際生活に支障をきたすわけではない。<br>
知識はそれでいい。<br>
「π=大体３」で教えられた人も、小数点以下４万桁を暗記する人もいる。<br>
どちらにしても半径５ｃｍを示されればコンパスで同様の円が描けるのだから。<br>
<br>
これらの事から学ぶべきことがあるとしたら何だろう。<br>
確定できないことでも決まりがあると便利だから決まりがある。<br>
決まりの成り立ちを知り、使い方を知り、読み解き方を知る。<br>
これらを知ることが学ぶことではなかろうか。]]> 
</content>
<author>
<name>tranquillizer</name> 
</author>
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<title>相応に１０年。</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51802375.html" />
<modified>2011-11-29T02:11:49Z</modified> 
<issued>2011-11-26T23:10:58+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2011:tranquillizer.51802375</id>
<summary type="text/plain">１０年の月日を振り返る。
短くも永くも感じる。
“あれからもう５年。”からさらに月日は流れ。

１０年ひと昔。
実感はなくとも１０年分過ぎた時間の上に今がある。
「何が」かを言い表せないけれど１０年前とは違った自分がいる。
そんな気がする。
１０年前に想...</summary> 
<dc:subject>時間</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51802375.html">
<![CDATA[１０年の月日を振り返る。<br>
短くも永くも感じる。<br>
<a href="http://blog.livedoor.jp/tranquillizer/archives/50892958.html" target="_blank">“あれからもう５年。”からさらに月日は流れ。</a><br>
<br>
１０年ひと昔。<br>
実感はなくとも１０年分過ぎた時間の上に今がある。<br>
「何が」かを言い表せないけれど１０年前とは違った自分がいる。<br>
そんな気がする。<br>
１０年前に想い描いた１０年後の未来にいないことは確か。<br>
今年、予想だに出来ないような大震災があったからではない。<br>
１０年後のことを思い描けない状態が１０年前の自分だっただけ。<br>
想い描く未来に希望を見い出せなかった。<br>
もっと端的に未来は無いと思った。<br>
未来を想い描いたとしても、それは、一瞬にして破綻すると知った。<br>
それはそれとして、否が応でもその日の続きは訪れる。<br>
日々の訪れは不可抗。<br>
ご飯を食べるとか、何時に寝るのかとか、そういう生活の話ではない。<br>
食べたくなければ食べなくてもいいのとはわけが違う。<br>
陽が昇り、陽が沈み、勝手に次の日が来る。<br>
都合が悪いからちょっと今日を延長というわけにはいかない。<br>
この流れに流されているだけだと日々は消費されるのかもしれない。<br>
一生懸命何かをしていても、きっと浪費されているのだろう。<br>
人生は充足感に包まれた刹那の中にしか成果はないのかもしれない。<br>
それ以外の日々はともすればすべて浪費ではなかろうか。<br>
これでいいとか、これではダメとか決められるものではない。<br>
浪費を恐れ倹約的な人生を送ってみようとして、実践できるとも思えない。<br>
時間も金銭も精力もどれをとってもムダなく発揮して生きるのは生き辛い。<br>
<br>
ところで、節目が増えて行くことはどういう意味があるだろう。<br>
これはおかしな文に思える。<br>
意味があって節目になるのだろうから。<br>
若しくは、意味を持たせるために節目にするだろうから。<br>
「する」のか「なる」のか。<br>
記念日だから節目になるのはステキだと思う。<br>
記念日に「する」日を決めて記念日が節目に「なる」こともあろう。<br>
節目に「される」のは悲しい事だと思う。<br>
大事件や災禍がこころに刻み込まれるのは「される」感覚だと思う。<br>
<br>
始めたことが必ず終らなければならないとは思わない。<br>
完成はしないで欲しいと心の奥底で思っている。<br>
いや、もっと強く、願っているとしても過言ではない。<br>
２００７年１１月１５日。当劇場開場記念日。<br>
２０１１年は新作があまりにも少ない。<br>
後悔は無い。<br>
反省も無い。<br>
むしろ、勢い任せに書かなくて良かったと思う。<br>
実際は、気力が萎えていて書けなかったのだけれど。<br>
環境が変わって書けないのはなんだろう。<br>
環境が変わって書けないのは書くことに対して真摯でないかもしれない。<br>
だからと言って書き上がれば何でもいいのなら書く必要すらない気がする。<br>
出来上がりに対してしょんぼりな評価であってもいい。<br>
書くことに本気でありたい気持ちは４年経った今も変わらずにいる。<br>
<br>
節目が増えるにしたがって伏目の深度が深くなる。<br>
希望を失っていくのが失望で希望を絶つのが絶望で。<br>
失望するうちはまだ希望が残っている。<br>
失える分希望に余裕がある。<br>
絶望は「する」のか「してしまう」のか「させられる」のか。<br>
段階的なものだろうと思う。<br>
失望し絶望「させられ」もうダメだと絶望「してしまい」最終的に絶望「する」。<br>
経過の段階毎に意思の力が強くなる。<br>
絶望は外からやってきて内側に完成する。<br>
完成した絶望が、存外手の中で転がせる程度になっていたら幸運だろう。<br>
希望を抱かない状態が絶望だとするなら、私はそこにいたことがある。<br>
それでもなお、人生終わってはいない。<br>
希望を抱かずとも死なずにおれることを知ると終わりは遠のいていく。<br>
さて、その生は浪費なのだろうか。<br>
<br>
１０年ひと昔。<br>
大きな節目を迎えて思うのは、刹那は相対的に見ると永い。<br>
人一人の人生は、人生全体をして刹那的な短さかもしれない。<br>
とすれば、浪費はどこにあるのか。<br>
どこにでもあってどこにもないから価値は変動する。<br>
変動する価値を基にするなら今を過ごしていればいい。<br>
本気でする気概より素晴らしいことも無いだろう。]]> 
</content>
<author>
<name>tranquillizer</name> 
</author>
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<title>被爆国新時代。</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51773396.html" />
<modified>2011-08-15T14:44:43Z</modified> 
<issued>2011-08-15T23:35:41+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2011:tranquillizer.51773396</id>
<summary type="text/plain">６６度目の終戦の日。
全国戦没者追悼式で３１０万人余の戦没者慰霊が行われた。
戦没者の方々に深い哀悼を捧げます。

毎年のことと軽く流せない１日。
一昨年も昨年も終戦の日に記事を書いた。
昨年は記憶の風化に主題を置いた。
それから１年の月日が流れ何か皮肉な物を感...</summary> 
<dc:subject>時事</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51773396.html">
<![CDATA[６６度目の終戦の日。<br>
全国戦没者追悼式で３１０万人余の戦没者慰霊が行われた。<br>
戦没者の方々に深い哀悼を捧げます。<br>
<br>
毎年のことと軽く流せない１日。<br>
一昨年も昨年も終戦の日に記事を書いた。<br>
昨年は記憶の風化に主題を置いた。<br>
それから１年の月日が流れ何か皮肉な物を感じる。<br>
他害ではなく、謂わば、自害の様相で戦中にあるのかもしれない。<br>
首相は先の平和記念式典と本日の戦没者追悼式で原子力政策に言及。<br>
原子力に依存しない社会づくりを明言した。<br>
原爆の恐ろしさを知りながら原発に依拠してきた日本。<br>
単回威力の被害と継続動力の希望。<br>
負を正に昇華することで戦災復興したのかもしれなかった。<br>
少なくとも効率的で将来性を見込まれて導入されたはずだった。<br>
経済産業省に原子力安全・保安院が置かれていることからも窺える。<br>
安全性を重視した運用を図るのなら文部科学省下が適切だと思える。<br>
経済的なエネルギー政策としてまさに原子力が動力だった。<br>
そのことを気づかせたのが事故だった。<br>
事故が起こるまで監督官庁がどこでもかまわなかった。<br>
事実、気に留めたことはなかった。<br>
<br>
原子力の功罪。<br>
素人考えでは、いかに制御するや否やの違いだけに思える。<br>
原爆は莫大なエネルギーを得るため臨界を制御せず超臨界に導く。<br>
超臨界に至れば制御不能であり爆発的にエネルギー放出が起こる。<br>
言うなれば、後先考えずに威力を発揮する。<br>
原発は臨界を制御し持続することでエネルギーを動力として用いる。<br>
言うなれば、後先を考えて威力を発揮する。<br>
作為無作為の違いが大きな違いを生む１つの例だろう。<br>
ともあれどちらも運用までは高い技術力が必要である。<br>
その技術力を持ちえた場合に対外的な効果をも合わせ持つ。<br>
制御する技術力があれば制御しない技術は容易である。<br>
つまり、原爆の有るや無しやは少しの時間で変わり得る。<br>
<br>
原爆と原発の違いを思うと不思議になる。<br>
原爆爆発後の経年での原爆症があることを知っている。<br>
原発事故での放射能の影響が報道される。<br>
様々な風評被害と言われているが風評なのだろうか？<br>
過去を以って今に照らし合わせて妥当な判断ではないのか。<br>
根拠のない噂由来の被害が風評被害である。<br>
原発事故において最悪の事態が宣言されている。<br>
これをして安全なのだと判断する方が警戒感が薄過ぎて危険。<br>
危険が前提で、流通している物品を見る。<br>
流通して問題ない物が流通するシステムを信じるしかない。<br>
逆説的に安全な物が流通していると思えば被害が出ない。<br>
疑心暗鬼の根本は情報公開が遅かった政府の対応というのは容易い。<br>
しかしながら、少し落ち着けば気づきそうに思う。<br>
反対に提供する側も少し落ち着けば気づきそうなことがある。<br>
飛散範囲が示されて、なおも野ざらしにしておいていいかどうか。<br>
指示がなかったので責任皆無というのはどうだろう。<br>
<br>
ところで、無念とはなんだろう？<br>
今年の首相の式辞を聞いていて疑問に思った。<br>
戦禍に散った戦没者の方々の無念を云々。<br>
何故か気になった。<br>
戦没者の無念は「何に」向けられているのか。<br>
志半ばで戦禍に散った多くの人々がいた。<br>
これらの人々はその志を遂げられなかった無念であろう。<br>
動員された人々であると考えればいいかもしれない。<br>
この動員は国家総動員法に由来する。<br>
途を曲げられ軍需を満たすため駆り出された国民の無念。<br>
では、軍人はどうであったのか。<br>
政治と軍事の区別が曖昧であった時代。<br>
大東亜を見た軍人の無念は別であったのではないか。<br>
それとても同じ日本人の見た構想である。<br>
総員を同一に動員は出来なかった。<br>
国が１つになることの難しさ。<br>
この点からも政治家は指導者であり、導き（構想）がいかに大多数の民衆に正確に伝わらないかが垣間見えるように思う。<br>
<br>
政治と国民との関係を見て思うこと。<br>
意見が活かされなければ意見は意見ではない。<br>
これは、意見を持つことを許されない以上に困難である。<br>
思想を持たないのとは違う。<br>
思想を持たなくとも意見は言える。<br>
そんな庶民の意見は時として本質を射抜く。<br>
しかし、効力を持たないならば意味がない。<br>
聞く耳を持たない政治では意見の吸い上げが出来ない。<br>
政治に耳を貸さない庶民では効力を発揮出来ない。<br>
欲しい物が届かず、今欲しくない物が届くのでは期待できない。<br>
後々必要な物よりも時勢に合うものが必要なことが多い。<br>
備蓄品が必要なのは頭ではわかる。<br>
けれども、消耗品も同程度以上に必要なのだ。<br>
そこには生活がある。<br>
政治でしか成し得ない備蓄品に関する事柄がある。<br>
政治でしか成し得ない消耗品に関する事柄がある。<br>
国民が望むのは、どちらも滞りなく進めてくれること。<br>
優先順位などない。<br>
どちらも進められる様に代議士を選挙で選ぶ。<br>
これらの議論がなされないのであれば政治などいらない。<br>
現政権与党は「国民の生活が第一」を掲げていたはず。<br>
生活を見ていないから反発が大きいのではないか。<br>
戦災と震災が重なって見える今年は特に思う。]]> 
</content>
<author>
<name>tranquillizer</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>日々多感。</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51771883.html" />
<modified>2011-08-15T14:41:18Z</modified> 
<issued>2011-08-10T23:38:26+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2011:tranquillizer.51771883</id>
<summary type="text/plain">書こうとすら思われない日々が続いている。
やっと書きだした今この瞬間もその思いに変わりはない。
だが、これまでの日々において心の動かなかった日はない。
このことが良くもあり悪くもあって書く意欲とならなかった。

ある日においては、思いが大きくなりすぎて想いに負...</summary> 
<dc:subject>時事</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51771883.html">
<![CDATA[書こうとすら思われない日々が続いている。<br>
やっと書きだした今この瞬間もその思いに変わりはない。<br>
だが、これまでの日々において心の動かなかった日はない。<br>
このことが良くもあり悪くもあって書く意欲とならなかった。<br>
<br>
ある日においては、思いが大きくなりすぎて想いに負けていた。<br>
ある日においては、思いが深くなりすぎて言葉にならずにいた。<br>
総じて気持ちが言葉になる以前の「何か」のまま悶々とわだかまる。<br>
ある時期から澱となり重く気持ちごと沈み込んでいた。<br>
明るい話題もあったがそれを取り上げる余裕はなかった。<br>
ポジティブもネガティブもその延長線上を見てたじろいだ。<br>
<br>
７月は１度も書かなかった。<br>
この事実を以前は重大な事と捉えただろうけれども、現在は少し違う。<br>
８月に書けたからいいのではないかと。<br>
鬱屈し悶々とした日々の中にあって書こうとの爆発力が生じた。<br>
単純に驚きを覚える。<br>
<br>
８月は特別なのだと改めて思う。<br>
戦争と平和に思いを巡らせる時、兵器が介在する必要はないのだと感じた。<br>
もはや、戦闘行為のみが戦争ではない。<br>
力の行使は総じて闘争なのではないか。<br>
いかにして力を律するか。<br>
このことが非常に重要な課題なのではないか。<br>
端的に言えば、力の平和利用の可能性をも再考すべき時かもしれない。<br>
<br>
原爆と原発。<br>
原子爆弾と原子力発電。<br>
ある意味においてイコールだとの意見が聞かれた。<br>
同感であるが捉え方は異なる。<br>
聞かれたのは危機的な状況に置かれている場合、同等との考え方だったから。<br>
原子爆弾を使用した側にとってのそれは平和利用である。<br>
自国民を戦禍にさらさないために講じた戦闘行為の手段である。<br>
敵国に被害が及ぶことが戦果となる非常時の事であり評価は難しい。<br>
<br>
平和利用という言葉の意味するところがわからなくなった。<br>
動力として原子炉を用いている原子力空母や原子力潜水艦は兵器である。<br>
さて、原子力発電所と何が違うのか。<br>
発電を目的とする発電所と、動力を得る目的の軍用艦船の違いはある。<br>
目的の先にあるものの違いだけでまったく別物になるのだろうか。<br>
単に反原子力を訴えたいのではない。<br>
<br>
原子力が根絶されることは必ずしも善ではない。<br>
少なくとも現在の生活レベルを下げないことを前提にすれば悪である。<br>
これまでの原子力利用実績を振り返ることも必要ではないか。<br>
もとより人知が及ばない対象ならば、これまでの実績は０であったはず。<br>
しかしそうではない。<br>
扱い方がわからなかったのではなく、扱う上で注意すべき点に欠陥があった。<br>
最悪の事態が想定された以上の最悪さであった。<br>
となれば、原子力がもたらし得る効果を両面的に再考すればいい。<br>
表裏一体の力の制御が簡単でないことは想像に難くない。<br>
特に軍事利用の暴発で平和的結果が起こるとは思えない。<br>
<br>
今年の広島・長崎での平和宣言は例年と趣を異にしていた。<br>
原爆投下の被害のみならず、事故による原子力の影響を体験している。<br>
これに言及しての宣言を受け首相は原子力に依存しない社会作りを明言した。<br>
恐ろしきは関わらず。<br>
それで解決するとは思われない。<br>
代替エネルギーを模索するだけでは変わらない。<br>
高エネルギーに依拠したシステムには言及されない。<br>
加速していく流れに逆らうことが悪であるかのように思われる。<br>
戻ることが出来るのにそれは極力避けたい。<br>
この本音が見えた上で、戻る選択をうながして効果が期待できるだろうか。<br>
より安全で安心な技術の向上を目指すことが進歩のように思われた。<br>
この進歩を止めることは英断だとは思えない。<br>
原子力の脅威を取り除くためには今まで以上に理解を深めなければならない。<br>
無くなることのない放射性物質が堆積した地球もまた無くならないのだから。<br>
<br>
ところで、この頃何をどう考えればいいのかがわからない。<br>
考えた先に見えたものも信じられない。<br>
言葉にして出すことに後ろめたさを覚える。<br>
震災後すぐには生きているだけでよかったのかもしれない。<br>
５ヵ月たった今、何かしら行動しなければならないのかもしれない。<br>
例えば、元に戻す為の活動も「生の行使」だろう。<br>
ところが、戻るが出来ない人達はどうすればいいのか。<br>
迷わず進めばいいなどと簡単にはいかない。<br>
ある人にとって時間は静止したままということがあり得る。<br>
進むことも戻ることもままならない人を責めることは出来ない。<br>
何を以って責めるなど出来ようか。<br>
そして、責める側は何も責められることなど無いとどうして言い得るのか。<br>
<br>
言葉になっていないかもしれない。<br>
希薄な文字しか書けていないかもしれない。<br>
それでも文字を書くことが出来たのは「生の行使」であると思いたい。<br>
再び言葉を綴るのが目標であり、生の目的と定めて生きる。<br>
これが現時点での精一杯かもしれないと感じる。]]> 
</content>
<author>
<name>tranquillizer</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>自分とか自身とか。-Heart bits-</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51754615.html" />
<modified>2011-06-22T12:29:11Z</modified> 
<issued>2011-06-22T21:19:55+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2011:tranquillizer.51754615</id>
<summary type="text/plain">今、自分を思う。
自分とは何か。
その存在そのものを疑う。

一人称。
あの人が、あの人をそのものを指して言う。
「自ら」は「身つから」の音変化だという。
他を介さずに行うことを、手ずからとも言う。

自分は一体、どこまでの範囲で自分なのか。
自ら分けるのが「自分...</summary> 
<dc:subject>Heart bits</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51754615.html">
<![CDATA[今、自分を思う。<br>
自分とは何か。<br>
その存在そのものを疑う。<br>
<br>
一人称。<br>
あの人が、あの人をそのものを指して言う。<br>
「自ら」は「身つから」の音変化だという。<br>
他を介さずに行うことを、手ずからとも言う。<br>
<br>
自分は一体、どこまでの範囲で自分なのか。<br>
自ら分けるのが「自分」であるとすれば、何が自分を分けるのか。<br>
自らの語源に帰る。<br>
身つから。<br>
体を離れて自分があることは出来るのか。<br>
例えば、他人の手を意のままに動かすことは出来ない。<br>
どれ程意識を集中したとしてもそれはかなわない。<br>
この点において、体を支配し動かす存在は他人ではない人である。<br>
その存在を自分と呼ぶのなら、呼ぶことができるかもしれない。<br>
しかしながら、手の機能を失う障害をもっているならどうか。<br>
他人の手でもなく、自分の手でもない手。<br>
意のままになることが「自由」であると言われる。<br>
その意味において障害は不自由さを生む。<br>
自分が不自由であること。<br>
それは、機能を発揮できないことのみに限定されるのではない。<br>
もっと大きく能力でもいい。<br>
もっと抽象的に拘束されない状態でもいい。<br>
<br>
強制と拘束はどう違うだろう。<br>
強制は無理矢理させることだし、拘束は無理矢理出来ない様にすること。<br>
したくないことをさせる。<br>
したいことをさせない。<br>
行為の方向が真逆でも不自由と言う点においては同様。<br>
その不自由をこうむる存在は誰か。<br>
その状況を共有するすべての人かもしれない。<br>
直接その処遇を受けていなくても、感じる人にとってそれは、自身の問題。<br>
<br>
自身の問題は自らの身に降りかからなくても自身の問題になる。<br>
意識が向かうか否かの差でしかない。<br>
自身は拡大するのかもしれない。<br>
ここに共感や共鳴の働きをみる。<br>
言い知れない申し訳ない気持ち。<br>
責められることではないから自責の念を抱く。<br>
これがもしかすると、自身の問題の姿。<br>
輪郭がぼやけているけれど、そこにあると認識できる想い。<br>
<br>
体１つを隔てて、体が存在を分けて、自らは他人と異なって存在する。<br>
意識の共有が出来ても、確証はない。<br>
文字を通して、言葉を通して分かち合っても、それは「分けられた」もの。<br>
分けずにあるオリジナルは、体の枠を越えて表現できるのか。<br>
このテーマはずっと語られてきているに違いない。<br>
芸術はその試みの発現だろう。<br>
オリジナルの再現度を限りなく高める努力が芸術かもしれない。<br>
表現されれば０か１かの問題ではない。<br>
けれど、そのことがかえって表現しなければどこまでも０であることを示す。<br>
<br>
自分らしさを思う。<br>
かもし出された自分。<br>
自己意識と異なる、他人から評価され認識された像。<br>
存在を疑うとは、この点かもしれない。<br>
「どちらが」と比べることでもないのかもしれない。<br>
だがしかし、どちらが本当の自分という存在なのか。<br>
外に向かう、表現された自分が「らしさ」としての存在。<br>
外へと向かわせる、表現しようとする存在がオリジナルの自己。<br>
なるほど、自分は自分ではない。<br>
自分を思う時、自分、自身、自己と様々に捉えなければいけない。<br>
<br>
自己は面白い言葉だと思う。<br>
自は一人称。<br>
己は一人称でもあり、さげすんで言う二人称でもある。<br>
これを客観的に自身を見る目だととらえてみればどうか。<br>
過大評価せず、控えめにとらえる様にとの戒めを込めて。<br>
そうして見えてきた自己像と「らしさ」の像の間に「自分」がいるかも。<br>
自分はきっと、自分だけのものではない。<br>
そう思えてくる。<br>
<br>
自分自身、自己についてわかっていない。<br>
それで、自分を思ってみたのかもしれない。<br>
何ができる人なのか。<br>
何をしようとする人なのか。<br>
自由な人か不自由な人か。<br>
結局、答えは見つからない。<br>
ずっとずっと抱えたままの問題をまだ持ち続けている。<br>
これからも形を変えて持ち続ける問題だろうと思う。<br>
そして、答えはきっと自分で見つけるのではないのだ。<br>
そう感じる。<br>
自己はきっと「したい存在」なだけ。<br>
自分は「した人」と評価される対象。<br>
自身でそれをするのは、自分を励ます自信のため。<br>
<br>
人と人の間の関係性の中に人間が形成される。<br>
そこにいる存在を自分と呼ぶのがいい様に思う。<br>
唯一の人、それが個人であり、意思を持った「自分」。<br>
思考する私は果たして、人間の一員だろうか？<br>
]]> 
</content>
<author>
<name>tranquillizer</name> 
</author>
</entry>

<entry>
<title>ある時以後の世界。</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51735347.html" />
<modified>2011-06-08T11:59:16Z</modified> 
<issued>2011-05-03T19:58:33+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2011:tranquillizer.51735347</id>
<summary type="text/plain">ある日、ある時を境に生活が激変するような出来事はそうそう起こらない。
そう思って生きる人は少なくないだろう。
そして、実際にそれが起こっていたとしても自身に起こらなければ気づかない。
１日として「何でもない日」は無いのではないか。
関係していれば重大な出...</summary> 
<dc:subject>時事</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51735347.html">
<![CDATA[ある日、ある時を境に生活が激変するような出来事はそうそう起こらない。<br>
そう思って生きる人は少なくないだろう。<br>
そして、実際にそれが起こっていたとしても自身に起こらなければ気づかない。<br>
１日として「何でもない日」は無いのではないか。<br>
関係していれば重大な出来事。<br>
そうでなければ、日常は変わらずに進んで行く。<br>
人が歩むのではなく、時が刻まれその事で進んでいる様に錯覚するだけ。<br>
自分が止まっていても物事だけは進む様に感じる。<br>
この感覚が止まっていると自分だけが遅れてしまうとの恐れを生む。<br>
この恐れの感覚は、普段意識されない。<br>
意識されない方がいいのだと思う。<br>
平穏とはその状態を言うのかもしれないから。<br>
<br>
毎日の生活が平凡過ぎるから刺激が欲しい。<br>
このフレーズはとても貪欲な望みではないか。<br>
命の危険がなく、それでいて非日常的で、その上展開が拓けることを望む。<br>
言うなれば、外れのないギャンブル。<br>
ナンセンスだけれどもそんなこと気にしていられない。<br>
変化が刺激なのだ。<br>
いつもと違った展開。<br>
それだけでワクワクする。<br>
本当はきっと、毎日違った日を生きるだけでワクワクできるのに。<br>
思うことが出来る人と、そうでない人の差は大きいのかもしれない。<br>
<br>
実際に変化が訪れた時、どう反応するのだろう。<br>
望んだ変化以上、日常が激変すると何を望むのだろう。<br>
平凡に満ちた、その時、以前の日常を焦がれる。<br>
当たり前が当たり前で無いことの不安。<br>
当たり前の中にいて蔑ろにしていた日常。<br>
不自由でない生活はあまりにもかけがえのない「不自然」で出来ている。<br>
自然に任せていると機能しなくなる物で世界は覆い尽くされているかの様。<br>
保守。<br>
その意味するところの大きさ。<br>
維持ではなく保守。<br>
ただ保つのではなく、正常な状態を重んじて保つ。<br>
常は常ならず。<br>
<br>
基点は常に日常の中にあるのだと思う。<br>
よって、常に起点は動く。<br>
今日は昨日の分変わったのだし、明日はきっと今日の分変わる。<br>
その変化は程度問題なのだろう。<br>
激変を予測して日々を送るのではない。<br>
昨日描いた世界が今日に続いているとは限らない。<br>
同様、今日描いた世界が明日実現することを前提に生きてはいない。<br>
ある程度の範囲内で実現したらいいとの予測だろう。<br>
激変を日々見越していたのでは毎日が空振り。<br>
そして、何を、あるいは、どこを基点にするのかすら定まらない。<br>
このことが、「今日」を存在することにしている様に思う。<br>
<br>
とはいえ、激変後も終りから始まるのではないだろう。<br>
まずは激変以前を目指す。<br>
このことは未だ終わっていなかった時間へ帰そうとする試み。<br>
完成がなければ終わりはない。<br>
流動的な時間と空間にのっかって生きている。<br>
変わってからも生きなければならない。<br>
では、何が変わったのか？<br>
生活の土台となる条件が変わったのだろう。<br>
平穏から混乱へ。<br>
沈静化とは、混乱を平穏へと帰し、保守する一連の流れではないか。<br>
保守の最中にも発展が望まれる。<br>
この発展を向上と呼ぶのなら、その為の活動は実り多いだろう。<br>
<br>
ここで言う激変とは何か。<br>
不可抗による影響。<br>
大きな括りとしての自然による影響。<br>
地震、津波、原子力。<br>
防ぎようがないのはどれも同じではないか。<br>
原子力は違うと思うかもしれない。<br>
そうだろうか？<br>
物質を「制御棒」で制御する。<br>
制御しなければ物質の持つ「自然」な働きのままに活動する。<br>
科学力で自然力に打ち克つのは相当困難であることを露呈する。<br>
しかしながら、それを可能にしなければならない。<br>
これに似た努力が過去にも多く刻まれ成果と呼ばれている。<br>
成果は乗り越えて後に出来あがったものに与えられる。<br>
<br>
今、ただ中にあって何が出来るか。<br>
過去から学ぶべきことは何か。<br>
未来を先取ることは可能なのか。<br>
現在わかっていないことを基にして進めることは出来ない。<br>
焦ってはいけない。<br>
真っ直ぐに見据えてわからないことをわかるための行動をする。<br>
わかっていることを実践する。<br>
最低限にして最優先。<br>
当たり前の最善手を打っていくことが切り札なのかもしれない。]]> 
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<name>tranquillizer</name> 
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<title>有象無象仮象。</title> 
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51729068.html" />
<modified>2011-04-17T11:51:50Z</modified> 
<issued>2011-04-17T20:44:01+09:00</issued> 
<id>tag:blog.livedoor.jp,2011:tranquillizer.51729068</id>
<summary type="text/plain">見える様にすることは大事なのだろうか？
本性を明らかにするつもりで仮象にならざるを得ない。
見えないからこそ本物で見えてしまえば贋物で。
大体にして１対１対応でいいことではないのか。
この場合にこそ、あたたかみや実感として伝わるのではないか。

何が腑に落ちな...</summary> 
<dc:subject>可能性</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://soliloquy-mini-theater.doorblog.jp/archives/51729068.html">
<![CDATA[見える様にすることは大事なのだろうか？<br>
本性を明らかにするつもりで仮象にならざるを得ない。<br>
見えないからこそ本物で見えてしまえば贋物で。<br>
大体にして１対１対応でいいことではないのか。<br>
この場合にこそ、あたたかみや実感として伝わるのではないか。<br>
<br>
何が腑に落ちないのかと言えばＡＣのＣＭ。<br>
どうもしっくりこない。<br>
啓発活動にもかかわらず、啓発される気がしない。<br>
むしろ反発を覚える。<br>
性根が曲がっているからかもしれない。<br>
それならそれとして、その事も含めて考えたい。<br>
<br>
こころは誰にも見えないけれど、こころづかいは見える。<br>
思いは見えないけれど、思いやりはだれにでも見える。<br>
宮澤章二「行為の意味」より<br>
<br>
ＣＭで引用され頻繁に放映されている。<br>
宮澤章二は詩人。<br>
その人の詩集に収められた言葉である。<br>
<br>
ＣＭの構成としては高校生が通学電車内で妊婦を見かける。<br>
女性が席を譲り会釈をして妊婦が座る。<br>
この出来事がきっかけとなって後半の実践へとつながる。<br>
階段で杖をついて登る高齢の女性を見かける。<br>
一度通り過ぎるも戻って手を引いて一緒に登る。<br>
流れとしてはわかりやすい。<br>
見えたことが気づきにつながったのは大きい。<br>
そう思わされる。<br>
しかしながら、こころは見えない。<br>
妊婦に席を譲った女性のこころづかいは見えた。<br>
では、何故こころに重点をおいたのか。<br>
<br>
気持ちは見えないけれど、気配りは見える。<br>
これでは何故いけなかったのか。<br>
たぶん、気持ちは見えるからだろう。<br>
気持ちも気配りも「ある種の手触り」として敏感に感じ取られる。<br>
席を譲る時にあるのはあたたかな気持ちであることを知っている。<br>
悪気があって席を譲るとか、無理矢理座らせることはまずない。<br>
慮る。そして配る。それが配慮。<br>
配るものは気であり、その気は気持ちを意味するのだと思う。<br>
<br>
ところで、有象無象を想う時その難しさにうなる。<br>
次に書く文はどうだろう。<br>
<br>
悲しみは見えないけれど、なみだは誰にでも見える。<br>
楽しみは見えないけれど、えがおは誰にでも見える。<br>
<br>
なみだを流していれば確かに何かしらの感情の揺れはわかる。<br>
けれど、なみだを見せずに深く悲しんでいる人もいる。<br>
何になみだしているのかを感じ取るには文脈が必要だと思う。<br>
うれし涙とくやし涙は同じ涙ではないのだから。<br>
えがおでも似たことが言えそう。<br>
目が笑っていなくても一応のえがおを作ることは出来る。<br>
それは本心ではないことを物語る。<br>
楽しくない時でも、困った時でもえがおは出せる。<br>
<br>
目に見えても目に見えなくてもともあれ仮象なのだと。<br>
だからと言って、心配りが偽善なのではない。<br>
伝える術として行動で示す他ない。<br>
こころがそのまま行ったり来たり出来ても席は空かない。<br>
妊婦に必要なのはあたたかなこころそのものではなくて座る席。<br>
「何ヵ月？大変ね」と言い、席を譲らないのでは配慮がない。<br>
目配せや声がけをせずに席を立ち、遠慮なく座ってもらってもいい。<br>
<br>
「見える」が「見せる」ではないことが重要なのだと思う。<br>
そして、この部分がＣＭを見た時の腑に落ちなさなのだと思う。<br>
この意味において「だれにでも」がひっかかる。<br>
相手に伝わるように仕草すればいい。<br>
周りにいて気づく人はその光景を目にして微笑む。<br>
周りにいて気づかない人は「見えても」心が動かない。<br>
こころや思いは本当にわからない。<br>
同じことを見ても同じ様に捉えるわけではないのだから。<br>
<br>
もやもやとした思い。<br>
「いいＣＭ」のはずなのにもやもやするのは何故なのか。<br>
それと向き合い自分と他人とを意識する際の思いが少し変わった。<br>
この思いは思いやりとしてではなく、思いとして伝わるだろうか？]]> 
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<name>tranquillizer</name> 
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