独り言小劇場

答えの出ない事柄を徒然に不定期に書き留めてみる場所。

医療

痛みって何なのさ。

ある人は痛みについてこう語ったそうだ。
「歯が痛いとき、その痛みをじっと見ている自分がいる」
聞いた話を書いた文章を読んで得た情報なので詳細はわからない。
けれども、今回ちょっとこの発言に寄り添える気がした。

突然、前触れもなしに左手首に痛みを覚えた。
ところが、この痛みは今となって考えるに痛みだったのだろうか。
痛みに似た、しかし、何かしら違う感覚だったように思える。
簡単に違和感と言えばその通りだが、痛みに似た何か。
痛みはいつから痛みになるのか。

1つ、痛みについての”あるある”を。
誰しも経験があるだろう足の小指を物の角にぶつける原因。
「固有感覚という無意識下での体性感覚で人は自分の体をなんとなく意識して」いる。けれど「それは必ずしも正しくはなくて、そのズレで端っこはいろいろとぶつけたりしやすい」と、NHK総合『解体新ショー』で回答されたという。
※固有感覚:体の様々な部位の位置する場所を感じているという"無意識"。
※体性感覚:感覚器が外からはっきり見えず、皮膚・筋肉・腱・関節・内臓の壁そのものに含まれる。
つまり、体の端にある足の小指は、脳も場所が曖昧にしか把握できないからぶつける。

さて、手首の痛みはどうやら体性感覚の領域だろう。
手首という関節領域。そして、痛み。
整形外科に掛かった。
手首が痛い原因の特定のためレントゲン撮影。
骨折やヒビ等の疑いが否定された。
腫れているし関節炎ということだった。
内科に掛かった。
赤く腫れているが、発熱・倦怠感等の全身症状がなく感染性関節炎は否定。
左手首だからという理由かはわからないが血栓性静脈炎も否定。
繰り返すようなら血栓性静脈炎かもしれないから厄介。
ともあれ、消炎鎮痛剤と患部固定で様子を見ることに。

ふむ。
診察の結果はどうあれ対症療法で痛みが和らいだので安心ではある。
わからなくても痛い。
わかっても痛い。
となると、とにかく痛くないようになればええねん。と、思う他ない。
痛い時問題なのは、原因がわかったとて痛みが消えるわけではないこと。
逆に言えば、原因がわからなくとも痛みが消えれば問題は消えること。

ここで、冒頭の痛みをじっと見つめる自分の話。
今回の痛みで最高潮だったのが午前3時過ぎ。
動かさなくても痛い。
手首で脈動を感じ、ドクンドクンと痛みが襲う。
動かしても動かさなくても痛い。
汗が噴き出しやたらと熱く感じる。
そんな中、ふいに冷静になった。
「この痛い部分を無くすか、痛みを感じる自分を無くすかのせめぎ合いだ」
結論として、お尻の下に手首を潜り込ませることで妥協した。
「見えんようにしたし、あとは痛いと思わないことにしたらええねん。寝よ」
よくわからないが関西弁で自分に決着をつけた。

痛みは消失が望ましい。
痛みを見つめて思いついたのが痛みの根本から無くしてしまう。
その為には、患部を無くすか、痛みを感じる自分をも無くすか。
痛みに苦しむ時、自分はきっと客体で痛みが主体性を持っている。
痛みは、痛みを発動すべく行動するから痛いのだろう。
その客体として痛みを感じる自分がいる。
と言うのも、普段痛みを感じないのは痛みの原因がないからではないか。
痛いのが通常であれば、自分が痛みの主体で痛くしているのかもしれない。
けれどもそうではない。
もちろん慢性痛はあろうが、原因があって痛いのなら通常とは違う。
この場合、処世術の様に自分を痛みの客体として痛みを受容し日常化する。
痛みに対して主体性を持った自分の行動はでき得るだろう。
何より痛みの原因を喚起させないことに尽きる。

痛みは何故あんなにも強烈な痛みなのか。
瞬間的な痛みの強さは上に記した足の小指が物語る。
この場合、脳があまりよく把握できていないから警鐘を鳴らすのだろう。
そう思ってもあんまりな痛みではないか。
言うなれば、威嚇射撃にもかかわらず命中している様なもの。
しかも機関部に大打撃と言っていい。
「イツゥゥゥー」っと、声にならない声を出してうずくまり涙目。
やり場のない怒りを覚えて拳を固めるも力なく下ろすしかない。
少しの間をおき「なんでこんなに痛いんだ」

きっと、足の小指は寂しがり屋なんだと思ってみる。
場所もしっかり把握されない。
足の小指のおかげでと感謝されることも滅多になさそう。
感謝のされようからすると、手の指はきっと花形に違いない。
それに比べて足の小指の大舞台はどうだ。
ぶつけたときに思い出されるくらいしか思い浮かばない。
せめてこの時とばかりに張り切るも空回っている。
こんな風に痛みを見つめると少しは笑い話にもなる。
痛いけど。

滑稽なほど真っ直ぐな。

正しさについて唐突に疑問を投げかけてみる。
真っ先に前提を提示しておかなければならない。
前提1:目的達成の為に全能力を発揮することは正しい。
前提2:能力を発揮するのは生物に限らない。

どんな例を考えられるだろう?と、自問する。
思い浮かんだのはおかしなことに薬効。
TVCMで聞いた事のあるH2ブロッカー。
いわゆる胃腸薬。
Hはヒスタミンの略。
ヒスタミンは胃酸分泌を促す。
つまり、H2ブロッカーはヒスタミンを抑制して胃酸の分泌を抑える。
よって、胃粘膜を保護修復して胃痛を緩和する。

薬としては痛みを緩和する能力を発揮するので正しい。
では、胃酸からみるとどうか?
迷惑な話だと思う。
けれど、ヒトからするときっと薬効の方が正しい。
何故かと言えば痛みが原因で生活に支障を来しかねないから。
となれば、痛みは正しくないことになる。
少なくとも積極的に痛みを正しいと考える要素は少なそうに思える。
ところが、痛みがないと生活に支障をきたすこともある。
これは、細胞レベルでヒトに警告を発する手段でもあるから。
いわゆる自覚症状。
はたして、痛みは正しいのか?正しくないのか?
痛みを緩和する薬効は正しいの?正しくないのか?

考えたところ「痛み」を「1つの痛み」として大括りにするのが正しくない。
必要な痛みと不必要な痛みがあるということでもない。
ある特定の場面において痛くなって貰っては困る。
それを正しくないと想定した場合に、その痛みを緩和するのは正しい。
重要なのはこの正しさの奥に警告が含まれている事実を忘れがちなこと。
例えば、重要なプレゼンを任されている時。
緊張感が高まり平常時とは違った状態になる。
緊張がストレスとなり胃に負担が。
この負担を単に抑え込むことが正しいのではない気がする。
負担なのだと自覚することが正しいのではないかと感じる。
負担軽減の手段の1つとして胃腸薬の薬効に期待するのは正しい。

正しさをどれが正しいかを正しく考えるのは簡単ではない。
しかし、上記の例から正しくないを考えるのは意外と簡単かもしれない。
見えてくるのは1つではない。
1、緊張する場面では胃が痛くなることを自覚しているが薬を飲まない。
2、胃が痛くなることを見越して薬を事前に飲む。
方や慣れに期待したり飲めない理由がある。
方や備えあれば憂いなしの姿勢。
冒頭の前提に照らすと、これらが正しくない理由がわかるのではいか。
自覚があるのなら痛くならずに済む手段を多く身につけたい。

結局のところ正しさはわからない。
正しい事がいい事でもない気がする。
正しくない事がそんなにわるい事でもない気もする。
胃酸を多く出したのもヒトだし、それに困るのもヒトだし、考えるのもヒト。
考えてもわからないのもヒトだし、対処するのもヒト。
ヒトの有り様がそもそも正しさを多様化している。
正しさは1つでなくていい。
無理がかかると胃が痛くなっちゃうから。

病気病。

病気に罹患することは少なくとも喜ばしい事態ではない。
と、信じて疑わなかったけれど、そうでもない場合もあり得る。
特殊なケースではあると思うけれど、病気に依りかかる人もいる。
これは一体どういうことだろうかと考えてみる。

まず、立ち位置が大きいのだろうと思う。
医者=治療者、患者=被治療者∴医者が病気を治すと考える人。
ある意味においては間違いと決めつける事は出来ない。
けれども、長期的な治療戦略に基づいて管理が必要な疾病では難しい。
治療にとっても信頼関係は重要だし、患者の自覚も必要だと感じる。
例えば、「言われたとおりに服薬していたのに改善しない」と、怒る人。
医者であっても1度で的確な投薬量をピタリと見抜くのは困難。
その前段階として、リスクを軽減するために薬の選択にも気を遣うはず。
ベターな処方をして経過を見た上でモアベターを目指す。
そういう積み重ねの上に快方を目指しているのだろうと思う。
この流れの中に、患者自身も「良くなりたい」を持つことが重要。

言われたとおりに飲んでいれば治るとか、病気は医者が治すものと思っている人は、どうも自分の病気に対して他人事な態度か過剰な知識武装がある。
前者は任せておけばいいのだから飲む薬がどんな薬かも興味を示さない。
後者は自分の飲む薬や処置に対して適用から外れない様に監視する様な。
病気という非常事態の収束が速やかに的確に図られれば満足なのかも。
その捉え方については一概に何とも言えないだろう。

ところで、病気への関わり方もまた難解で複雑だと思わずにいられない。
病気への想いとして、治りたい、あるいは、治して欲しいと思うのはいい。
他力本願の治して欲しいであっても、病気と関わり続けたくない意思が見える。
この心情はさほど難しく考えずに共感できる。
急な発熱とか激しい頭痛に苦しんでいる時の事を思い浮かべてみればいい。
上記と異なり、病気になりたい人、病気でいたい人もいるように思える。
また、なりたくもその状態でいたくもないのに、なってしまって抜け出せない人というのもいる。

病気が特別な意味を持って使われることに都合の良さを見出す人。
「免罪符」の様に病気(病名)を利用する人もいるように思う。
何故そんな事に?
たぶん、最も多い理由は楽だから。
便利な対外的効果を内包していることを察知する。
出来ないことへの予防線であり、大変だねと労られる対象となる。
だからと言ってこれらの人々を糾弾することは出来ない。
罪ではないのだし、自己責任で行っている生活スタイルなのだから。
また、そうすることでやっと自己を保持しているのかもしれない。
一度落ち込んだ所から抜け出すのには想像以上の力がいる。
自信が無い。
体力も無い。
経験も無い。
空白の月日が重い。

どの種の病気に罹患するかによって以上のことが該当しないことも多い。
けれども1つ共通すると思える事がある。
病気を知り、病気を治すのは自分の努力と医者を含む周りの人達の支え。
ストレス社会と言われ、ストレスが原因とされる病気が次々と出てくる。
病気でない人の方が「病気にならない病」にでもなっているかの様。
それと反対に「病気病」にさらされている人達。
健やかな生活を送る為に、病気を考える時間を持つのも大切かもしれない。

看護と介護と。

見たり、聞いたり、したり、されたりで感じた事。
看護と介護は似ている所もあるけれど、やはり、別物の様な気がする。
まず、字が違う。
これはその行為の違いを表すために違っているのだと思う。
nuraseやcureの看護。
nuraseやcareの介護。
ナースでは同じに書いて、看護する。介護するとなる。
キュアは治療や手当をする。
ケアは世話。医療的・心理的援助を含むサービス。

どちらも対象に対して寄り添う姿で共通するのだと感じる。
その意味でナースを共通して持つ。
これを漢字で表すのが「護」なのだろう。
護るは防衛の意味を含む。
病気やけがで弱っている人の手当てをして護る看護。
老化という不可避な現象により機能低下する人の世話をして護る介護。

究極的な見方をすると介護に晴れやかさは薄い様に思う。
と言うのも、介護は後退する日常に寄り添う。
劇的に回復が望める種類の現象ではない。
出来ていた事が出来なくなる。
それをサポートする。
下支えすることでその人のその人らしさを保つ事に寄り添う。

一方、看護の方はというと明るさが多少なりともある。
入院患者が快復し退院する場面に接する。
症状が緩和し元気を取り戻す姿を見る事もあるだろう。
無論、患者を看取る事もあるだろうけれど。

対象が患者の場合、患っている状態が消えれば看護の必要が無い。
機能低下を対象とする場合、くいとめる為の継続的な介護が必要。
この部分が最も異なるのだと思えてくる。


医療分野でも福祉分野でも人材不足が言われる。
求人はあるけれど就職希望者が少ない。
雇用対策の為にこの分野が注目されるけれど人員配置だけでは仕方ない。
密接な信頼関係を築く事が出来なければ、体を委ねられない。
出来ていた事が出来なくなるというイライラは想像に難くない。
その不満を受け止めるのも仕事の一環だと知っている。
その上でその現場に飛び込んで行くのは勇気が必要だろう。

やりがいはあるに違いない。
出来ないとあきらめていた事が少し出来るようになった瞬間。
世話をした事に対して、労をねぎらい「ありがとう」を戴いた瞬間。
やったね!と、一緒に喜び合える瞬間。
それを受け取れるまでに耐えるべき困難が多い。
ここが問題なのかなぁと思う。

看護や介護をする方にやる気があっても、受ける方に意欲がないといけない。
それを引っ張り上げるのも容易くはない。
いかに心で向き合うか。寄り添えるか。
この問題には向き不向きが大きく関わっている。
単純に足りないから入れて埋めればいいのではなく、やれる人にとってやりやすい様にサポートするシステムこそ求められるべきだと思う。

今年の風邪ってば!

新型インフルエンザの感染者数拡大が止まらないとのこと。
それはそれでとても大変な事だと思う。
感染者数が増えるにつれ、変異し強毒性になる可能性が高くなる。
季節が進み、季節性との区別を付けにくくなるかもしれない。

ところで、インフルエンザも辛いけれども風邪だって相当辛い。
特に今年の風邪は性格が悪い様に思う。
これまで経験した事のない症状でその威力を見せつけられた。
風邪は万病の元。
それを痛感している。

症状は鼻詰まりとのどの痛み。
せきがまったく出ない不思議。
診察して下さった医師曰く、「引き始めからこじれた様な風邪」。
鼻詰まりの忍耐力は相当鍛え上げられた猛者のイメージ。
鼻の奥をツーンと執拗に刺激し続ける。
ちょうどプール等で鼻に水が入り込んで痛いあの感覚がずっと続いていた。
これが「性格が悪い」と表現した所以なのだけれど…。

さて、風邪と闘いながらつらつらと思うことがあった。
「みる」ということ。
見る、観る、診る、看る。
段階的に距離が変化することに気付いた。
視野に入っている。
注意深く観察する。
視覚だけでなく接触することで容態を把握する。
変化に気を配りながら世話をする。

診察を受けて点滴などの処置を受け、処方されたお薬を持って帰宅。
その一連の中で「みる」事に変化があって、良くなる方向に導かれる。
医療行為って連続で出来ているんだなぁと感じた。
関与する人が途中で変わるけれど、治療という目的は変わらない。
それは、医師でも看護師でも薬剤師でも治す目標が一致しているから。
自身の役割の中で出来る事をする。
それが結局患者本位の医療に結実している。
鼻の奥がツーンとしてボーっとした頭でそんなことを思い考えた。

医療従事者は意外と風邪等に強いとのこと。
患者さんから軽度に感染させられて免疫がいつの間にかつく。
それで風邪にもインフルエンザにも罹りにくいとのことだった。
うまい具合にバランスが取れているのかな?と、感じた。

怖いのはインフルエンザだけじゃない。
風邪も注目を浴びていいと思うほど症状が重く出る。
今年の風邪にはご用心。

傷と痕。

色んな形で痕が残る
乗り越えた後ならね

今傷ができてるのなら
癒されるのを待ってるんだね
だけど
待ってるだけじゃ治らないのかも
治ろうとしなくちゃね

かさぶた
必死に闘った白血球達の姿
治ろうとしながら同時に
ここが傷なんだよって教えてる

目に見える傷は
見た人への警告なのかも知れないね
弱ってるんだ
治してるんだ

目に見えない傷は
どうすればいいんだろう
見える様にすればいいのかな
それで
どうなるのかはわからないけど

手を差し伸べてもらえるかな
優しく接してもらえるのかな
そうだったら救われる気分になれるね

無縫って言葉があるんだって
手術した痕をできるだけ目立たなく
まるで何事もなかったかの様に
治したんだってことがわからない様に
そんな想いでメスを入れる
医師の医師としての誠意なんだって

傷ができてしまうのは
生きてる証拠なんだね
目に見えるとか
目に見えないとか
そんなこと関係ないんだね

だからって心配いらないよ
治りたがるし治そうとする
そうすると癒しが来るんだって

傷痕は生き抜いてきた証明
経過を辿る軌跡
傷だってきっと思ってるはず
「ここに在ることに意味がないはずがないんだ」って

象徴的症状。

心と体は緊密につながっている。
心の不調が身体的変調として表れることは少なくない。
例をあげると、不眠、だるさ、頭痛、吐き気、無気力感、焦燥感…etc.

心の不調、あるいは、一歩踏み込んで心の病も含めてその種類にもよるが、身体的に変調を来す事が多い。
それを受け、まず内科などにかかるものの、特別これといった原因はないと言われる。ところが、実際問題として具合が悪いので、原因を突き止めようと病院をはしごした揚句に心の専門家の担当分野であるとする医者に出会って初めて、そうなのかとわかるケースが多かった。
近年は、メンタルクリニックや心療内科を備えた内科も増えて来ているし、内科などでもストレス性の症状には気を配るようになっている様に思える。

自覚症状として情緒不安定を感じたり、何日も不眠が続いたり、激しい焦燥感やよろしくない思考が渦巻いているという場合は、迷わず心の病担当の医者にかかるのが妥当だろうと思う。
ここまでは前フリのようなものである。

今回は、うつに関することが本題となる。
うつは「心の風邪」と言われて久しい。
以前は「鬱病」だったものが、薬効が大きくコントロールしやすくなった、また、プチうつの様に使われるほどポピュラーな病気として「うつ」と表記も柔らかなものとなった。
しかし、「風邪は万病のもと」という言葉もある通り、今なお油断はできない。
自殺者のうつ病罹患率が高いのは周知の通りである。

うつ病は、ストレスや心にとって大きな負担となる出来事等によってセロトニンやノルアドレナリンなどの脳内の神経伝達物質の働きが悪くなり起こると言われている。
セロトニンとノルアドレナリンは脳の中で、意欲や活力などを伝達する働きをしているので、この働きが悪くなると主要な症状である憂鬱感を引き起こし、その他の様々な症状に結びつくと考えられている。

薬効が大きくコントロールしやすくなったというのは、ロトニン・ノルアドレナリン再取り込み阻害薬(Serotonin & Norepinephrine Reuptake Inhibitors=SNRI)という次世代型の薬のおかげである。
これにより、興奮神経を刺激し、やる気や気分を向上させる効果を発揮する。
うつ病の仕組みや薬効について簡単にまとめた。

さて、この病気の何が怖いといって、症状の多様さ、他人から見えにくい症状、その症状の苦しさも伝わらないことが苦しいのだと思っていた。
しかしながら、他人にその症状が見えないとの部分に疑問を抱く症状がある。

失声。
文字通りの症状で声が出なくなるのである。
多くの場合ストレスによるもので、心因性失声症と言われるようである。
完全に出なくなる場合もあるようだが、多くはかすれ声になってしまうようだ。
何を言っているのかが相手に聞き取りにくくなる。

似た病気に失語症があるが、これは脳血管障害などの脳の病気が原因によって起きる病気である。
言語を言語として認識する脳機能がうまく機能しなくなるため、伝えたい事柄を表す言語それ自体の認識ができなくなる、つまり、言語を失うので失語症となる。


今回の記事タイトル「象徴的症状」は、もちろんうつ病における失声を指している。
何故こだわるのかといえば、経験したからである。
声の果たす役割の大きさに驚いた。
驚いたと書くと極短時間の出来事の様だが、通常の声量に戻るまで1年半近く失声状態にあった。

人は、コミュニケーションの手段として多くの物を手に入れたかの様に思われるが、さほどでもないなと思い知らされた。
人と対する場合、最も有効なのは声に出して用件を伝えることである。
相手に声が聞こえず、「え?」と聞き返される度に自分の存在がとても小さくなっていくのを感じた。
声を発しコミュニケーションをとることができる。
これは動物にとって自然な集団生活、あるいは、種族の共通の存在認識能力である。
それが行えない。
そのことで、なんてちっぽけな存在なのかと落ち込んだ。

吹っ切れたのは(とはいえ、だいぶ時間がかかったが)、筆談だっていいじゃないかと思えたから。
相手に声が聞こえず「え?」と言われ、思いきり大声を出してるつもりで話すことを選ぶよりも、買い物等では必要な物をメモして出かけ、欲しい物の場所がわからなければ、メモを指させばいいのである。
「声が出ないので筆談で」と書いて見せればなんとかなる。
相手がドギマギしてしまうのを見なければならないのも、苦しいけれど。

そんなわけで人と接することが非常に苦しい。
自然な流れとして、言語でのコミュニケーションをとる必要のない状態にいることが多くなる。
独りでいるか、動物や植物に向き合う。
なまじ可能性としてわかってもらえる可能性のある「人」が相手だから声が重要になるので、最初から言語で向き合う必要のないものを相手にすればいい。
消極的な前向きな考え方ではあるが、何物ともかかわりを持たずに、自分という存在そのものとのみ向き合っている方が辛かった。
コミュニケーションが取れないとはすなわち、存在している確証がないということだ。
いるかいないかわからない場合、まず、いないことになる。
確認が取れて初めて、いた、と認識されるのが人の世の仕組みなのだから。
こんな風にして下へ下へと自分の存在を貶める思考、存在の小ささを確認する様な思考、その果てに消えてなくなりたいと沈み込んで行ってしまうことも多い。

うつ病は、人間関係でのストレスや不可避の状況をきっかけにすることが多い。
そこでコミュニケーションで最も重要視される声を失うことで他を排除し、自分という閉鎖空間の中において生きる。
もちろん、その間にも薬効があるので気分も軽くなってくるし、活動的にもある。
活動できるようになってくれば人間性も取り戻し、消極的な前向き思考であっても少しずつ進むことができるようになるのだ。
うつ病は決して治らない病気ではないのだから。


ここまで書いてきて、うつ病における失声とは、本質に立ち返り言語以外での人間関係上のコミュニケーションのあり方を見直すいい機会なのかもしれないと思う。
実際に以前は気に留めることのなかった聴覚障害者の方への想いは大きく変わった。
手話というコミュニケーション手段を得ることで生き生きと自己表現される方がいるのが、以前に比べ失声を経験してからは少しではあるがわかる様な気がしている。

主治医である心療内科医の言葉が、この頃はスーッと心にしみこんでくる。
「何事も経験だと言われるのは、本当は要らない経験の方が多いからかもしれない。でも、経験できたのならそこから何かしらをいつか得るかもしれない。そうやっていい方に考えることだってできる。全部終わりにしちゃったらそれ以後は何もない。何が必要なことだったのかっていうのは、後から気付くものだから。うつになる人はよく考える人。考えるからうつになるのかもしれない。だからこそ、うつの間に考えたこと感じたことを後から考えたら得たものになるのかもしれない。うつっていうのは一生懸命休もうとするエネルギー充電期間なんだから、沢山悩んで考えて過ごしてください」

何とも一言では表現できないが、いい言葉だな、と思っている。

ポカポカにご用心。

思い違いをしていた。
眠気は暖かいと起こりやすいものだと思い込んでいたが、そうではないようだ。

給食を食べ終えお昼休みをゆったりと遊ぶ。
お腹もいっぱいでポカポカ陽気の午後の授業。
そこで、睡魔との闘いが始まる。
黒板に目を向け、教科書の文字を追い、何とか持ちこたえようとする。
しかし、先生の声はまるで子守唄の様に耳に届き、まぶたは余りにも重たく、いつしか夢の世界に陥落。
そういう経験をしていたし、よく言われる情景だとも思う。
ところが、体のメカニズムは「ポカポカ=眠りやすい」ではないようだ。

寒さが続く今の時期、電気毛布や湯たんぽ、あるいは、あんか等を使って布団を温めることがあると思うが、温めすぎると安眠の妨げになるとする専門医の記事を読んだのだ。

「人は体温が下がるから眠くなる。温めすぎは逆に眠りを妨げる」と指摘。

睡眠外来クリニックを都内で開業する医師が、詳細について話している。
「眠る前には脳や内臓の活動が低調になり新陳代謝もゆっくりとなり、体温は下がる。しかし、布団を温かくしすぎると体内から熱が放散されず、体温が下がらないので寝付けなくなってしまう」

また、快眠コンサルタントの言として布団の適温が示されていた。
「布団の中の温度は、体温より少し低めの34度前後が理想」

適温の布団を用意するにはどうすればいいのかについても書かれていた。
電気毛布や湯たんぽなどで温めておき、寝る前にスイッチを切ったり、外へ出しておけばよい。

電気毛布やあんかは低温やけどの危険性があると注意喚起もしている。
体温より少し高い温度では熱さや痛みをあまり感じないが、長時間接触していると皮膚組織への影響は通常のやけどと大差ない。
湯たんぽは自然に冷えて来るものの、保温性の高いものであれば同様の危険があると指摘する。

足先や手先などが冷たい冷え性の人は、就寝前に40度前後の湯に足先を入れて温めたり、ソックスや手袋を着用するのも有効。
しかし、着用したままでは血行が悪くなってしまうため、朝起きた時には自然に脱げているくらいゆったりとした物を選ぶことが重要。

やけどの防止と安眠を妨げる温めすぎを避けるためには、あんかや湯たんぽは厚手のタオルなどで巻き、電気毛布はカバーをつけて直接肌に触れることがない様にして、温度も低めに設定するのがよいと締めくくっている。


目からウロコの内容だった。
ポカポカな状態こそリラックス効果で安眠に結びつくと思っていたのが、真逆だったわけである。
具体的な夜の安眠についての記事なので、イメージしていた情景とはまた異なるケースなのかもしれないとも思ったが、「人は体温が下がるから眠くなる」と断言されているのでこれは間違いないようだ。

そこで、体温が下がると眠くなるケースを想像してみたところ、冬山での情景が思い浮かんだ。
コントなどでおなじみの「おい寝るな!寝たら死ぬぞ!」の場面である。
あれは、この事実を基にして耐えがたい睡魔が襲いかかって来ることを表していたのかと、妙に納得した。

他のケースも思い浮かんだ。
クールダウン。
昂った状態から醒めると脱力しリラックス状態になる。
これも、そうかなるほどであった。


思い違い。
実際に体験したことがある事柄であっても、構造を理解しメカニズムが解明されていることの前では裏付けにはならない。
ふと疑問に思ったことに興味を示し、理解しようとしてみることで思い違いに気付くことができた。
同時に、自分が思っていた根拠となる体験、あるいは情報として持っている知識と、実際に得た正しい知識を適用したケースを思い描けるかどうかが「身に付く」かどうかの分かれ道かもしれないな。とも感じた。


今日からは安眠のための適温を知った上で眠る環境を整えられる。
体も脳も休める睡眠が、生活する上で非常に重要な行動であることは思い違いではないだろう。

ヒトらしさと医療技術。

今回は大変に重い内容である。
重いというのは、多重構造で考えるべき点が多く難解であることを意味する。
しかし、意図的に難解にするわけではない。
多分に「曖昧さ」と「関連性」が含まれているが故に難解なのである。
最初にキーワードを示す。
万能細胞 再生医学 ヒト・クローニング 脳死 臓器移植


以前の記事心の2欠片目。-Heart bits-で少しだけ触れた。
今回は遺伝子工学や再生医療に関する研究に対して考察したいと思う。
非常に強い興味を持ち続けているテーマである。
契機は、学生時分に一般教養の課目で「人間論」の講義を受けたことにある。
生命倫理についての内容だった。
初めてSOL(生命の神聖さ)やQOL(生活の質)の言葉と概念に触れた。
講義内容は多岐にわたった。
死生観、生命の始期・終期、人工妊娠中絶、出生前診断、移植医療・再生医療・脳死、ヒト・クローニング、安楽死・尊厳死…etc。
とりわけ気になったのが、ヒト・クローニングと再生・移植及び脳死の問題。
単位認定の為の試験ではこれをテーマとして論じた。
それを以下に載せる。


『ヒト・クローニングと脳死及び移植医療について』
ヒト・クローニングにおける最も重要な問題点は「人間の尊厳」である。
ここでは、「人間の尊厳」を1人の人間の生命のかけがえのなさ(代替不可能性)であるとする。
ヒト・クローニングにより生み出される、「もう一人の自分」となり得る全く同様の遺伝子を持つ存在は、このかけがえのなさに対しての脅威となり得る。
しかしながら、「もう一人の自分」となり得る存在と書いたのは、可能性はあるものの、存在し得ない不可能性の方が高いことを意味するものである。
つまり、遺伝子構造が同じであっても、同時期に同じ年齢で全く同じ環境での生活を現時点で成長している人間においては適用し得ないからである。

これに対する反論として、確立された技術の下、新生児に適用する場合はこの条件を適用することができるとの考えがあるだろう。
これに応える例として、1卵生双生児をもって臨む。
本来1人の人間の為の細胞分裂が、最初の分裂によって2個となった時点で別々に分かれ、そこから2人の人間へと成長していく。
これは、全く同じ遺伝子を持ち同時期に同じ環境で育つ例として最適である。
1卵生双生児を見ると、外見上はそっくりで見分けがつきにくい場合が多い。
ところが、同一の人物ではないことがわかる。
内面での相違がそれである。
同じ両親、環境、遺伝的要因は同じであっても感性での差異が生じる。
お互いが他者として互いに認識しあうことで、趣向や行動等が変わるのである。

さて、ヒト・クローニングの技術によって「人間の尊厳」が損なわれかねないという危険性を述べることも重要だが、よりその技術を肯定的に利用する場について述べることの方が現状にとっては有用であるだろうと考える。
移植医療においてである。
現在、心臓・肺・肝臓・膵臓は生体からの摘出が不可能である。
これらの臓器が移植に必要な場合には脳死患者の臓器に依存している。
従来のヒトの死である、器質死=三兆候死(呼吸・心臓の不可逆的停止、瞳孔散大による光への反応の消失)と脳死(大脳のみならず脳幹の機能を含む回復不能な脳機能の喪失)とでは、質が異なっている。
器質死は、機能を停止し体温が低下し硬直する。
よって、死という現象を納得する形で受け入れることができる。
一方、脳死は生かされ続けることが可能な死である。
ぬくもりがある。
反射によるものではあるが、体が刺激にピクリと反応する。
まだ生きているのではないか。
居てくれるだけでもいい。という遺族の思いが残る死の概念である。

死の概念を新たに導入して行われる脳死による臓器移植であっても、他者からの提供であることから拒絶反応が起こってしまえばその臓器は機能しない。
そこでクローニング技術が重要度を増すのである。
そもそも現代医学において、人間は、有機的統合体としてみなされているので機能しなくなった臓器は交換する。これに基づいての移植医療である。
パーツ交換の要領である。
これを、他人の死に依存せずに自らの細胞から培養した個別の臓器を移植すれば拒絶反応も起こることなく処置できるのである。

以上、述べてきたことから、脳死による移植は発展過渡期にある医療技術における応急処置的手段である。
できるだけ新鮮な臓器を確保し、救える生命の為に使うというのが目的であることからもわかる。
この問題を解決するためにも、移植医療にクローニング技術を有効に活用し、他者を介することなく、言いかえれば、他者の死の上に成立する生ではない方法が確立されることが望ましいと考える。


論文中での再生医療は、ヒト胚を利用しての幹細胞からの個別臓器作製であり、胚とは受精卵であり、ヒトになる可能性を否定して成り立つ技術であった。
やはり他者の死を介して生きる技術であることに変わりはなかったのである。
しかし、昨年の京大山中教授のグループの研究報告では、本人の細胞を使うことで万能細胞の作製が可能という、理想的な技術が現実味を帯びてきた。
政府もこの分野の研究に莫大な研究資金を充てることを予算に盛り込み、バックアップ体制を国をあげて整えようとしている。

健康で長生きしたい。そう願うのは自然なことだろうと思う。
しかし、以前の記事で遺伝子工学に携わる研究者が言っていたと紹介した様に死ねない世界が最良なのか。
ヒトの「モノ化」が極端に進んだ先に、生物としてのヒトらしさは残るのか。
他者の死のおかげで生きていられるという「負い目」から逃れることができる技術として考えることは少ないと思うが、その考え方が全くないとも言い切れないのではないか。

増やした「死の概念」が形骸化し、死の多様性の前例として、生の終止符の選択肢の1つとして容易に用いられる様な未来になって欲しくはない。と強く願う。
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