ある人は痛みについてこう語ったそうだ。
「歯が痛いとき、その痛みをじっと見ている自分がいる」
聞いた話を書いた文章を読んで得た情報なので詳細はわからない。
けれども、今回ちょっとこの発言に寄り添える気がした。
突然、前触れもなしに左手首に痛みを覚えた。
ところが、この痛みは今となって考えるに痛みだったのだろうか。
痛みに似た、しかし、何かしら違う感覚だったように思える。
簡単に違和感と言えばその通りだが、痛みに似た何か。
痛みはいつから痛みになるのか。
1つ、痛みについての”あるある”を。
誰しも経験があるだろう足の小指を物の角にぶつける原因。
「固有感覚という無意識下での体性感覚で人は自分の体をなんとなく意識して」いる。けれど「それは必ずしも正しくはなくて、そのズレで端っこはいろいろとぶつけたりしやすい」と、NHK総合『解体新ショー』で回答されたという。
※固有感覚:体の様々な部位の位置する場所を感じているという"無意識"。
※体性感覚:感覚器が外からはっきり見えず、皮膚・筋肉・腱・関節・内臓の壁そのものに含まれる。
つまり、体の端にある足の小指は、脳も場所が曖昧にしか把握できないからぶつける。
さて、手首の痛みはどうやら体性感覚の領域だろう。
手首という関節領域。そして、痛み。
整形外科に掛かった。
手首が痛い原因の特定のためレントゲン撮影。
骨折やヒビ等の疑いが否定された。
腫れているし関節炎ということだった。
内科に掛かった。
赤く腫れているが、発熱・倦怠感等の全身症状がなく感染性関節炎は否定。
左手首だからという理由かはわからないが血栓性静脈炎も否定。
繰り返すようなら血栓性静脈炎かもしれないから厄介。
ともあれ、消炎鎮痛剤と患部固定で様子を見ることに。
ふむ。
診察の結果はどうあれ対症療法で痛みが和らいだので安心ではある。
わからなくても痛い。
わかっても痛い。
となると、とにかく痛くないようになればええねん。と、思う他ない。
痛い時問題なのは、原因がわかったとて痛みが消えるわけではないこと。
逆に言えば、原因がわからなくとも痛みが消えれば問題は消えること。
ここで、冒頭の痛みをじっと見つめる自分の話。
今回の痛みで最高潮だったのが午前3時過ぎ。
動かさなくても痛い。
手首で脈動を感じ、ドクンドクンと痛みが襲う。
動かしても動かさなくても痛い。
汗が噴き出しやたらと熱く感じる。
そんな中、ふいに冷静になった。
「この痛い部分を無くすか、痛みを感じる自分を無くすかのせめぎ合いだ」
結論として、お尻の下に手首を潜り込ませることで妥協した。
「見えんようにしたし、あとは痛いと思わないことにしたらええねん。寝よ」
よくわからないが関西弁で自分に決着をつけた。
痛みは消失が望ましい。
痛みを見つめて思いついたのが痛みの根本から無くしてしまう。
その為には、患部を無くすか、痛みを感じる自分をも無くすか。
痛みに苦しむ時、自分はきっと客体で痛みが主体性を持っている。
痛みは、痛みを発動すべく行動するから痛いのだろう。
その客体として痛みを感じる自分がいる。
と言うのも、普段痛みを感じないのは痛みの原因がないからではないか。
痛いのが通常であれば、自分が痛みの主体で痛くしているのかもしれない。
けれどもそうではない。
もちろん慢性痛はあろうが、原因があって痛いのなら通常とは違う。
この場合、処世術の様に自分を痛みの客体として痛みを受容し日常化する。
痛みに対して主体性を持った自分の行動はでき得るだろう。
何より痛みの原因を喚起させないことに尽きる。
痛みは何故あんなにも強烈な痛みなのか。
瞬間的な痛みの強さは上に記した足の小指が物語る。
この場合、脳があまりよく把握できていないから警鐘を鳴らすのだろう。
そう思ってもあんまりな痛みではないか。
言うなれば、威嚇射撃にもかかわらず命中している様なもの。
しかも機関部に大打撃と言っていい。
「イツゥゥゥー」っと、声にならない声を出してうずくまり涙目。
やり場のない怒りを覚えて拳を固めるも力なく下ろすしかない。
少しの間をおき「なんでこんなに痛いんだ」
きっと、足の小指は寂しがり屋なんだと思ってみる。
場所もしっかり把握されない。
足の小指のおかげでと感謝されることも滅多になさそう。
感謝のされようからすると、手の指はきっと花形に違いない。
それに比べて足の小指の大舞台はどうだ。
ぶつけたときに思い出されるくらいしか思い浮かばない。
せめてこの時とばかりに張り切るも空回っている。
こんな風に痛みを見つめると少しは笑い話にもなる。
痛いけど。
「歯が痛いとき、その痛みをじっと見ている自分がいる」
聞いた話を書いた文章を読んで得た情報なので詳細はわからない。
けれども、今回ちょっとこの発言に寄り添える気がした。
突然、前触れもなしに左手首に痛みを覚えた。
ところが、この痛みは今となって考えるに痛みだったのだろうか。
痛みに似た、しかし、何かしら違う感覚だったように思える。
簡単に違和感と言えばその通りだが、痛みに似た何か。
痛みはいつから痛みになるのか。
1つ、痛みについての”あるある”を。
誰しも経験があるだろう足の小指を物の角にぶつける原因。
「固有感覚という無意識下での体性感覚で人は自分の体をなんとなく意識して」いる。けれど「それは必ずしも正しくはなくて、そのズレで端っこはいろいろとぶつけたりしやすい」と、NHK総合『解体新ショー』で回答されたという。
※固有感覚:体の様々な部位の位置する場所を感じているという"無意識"。
※体性感覚:感覚器が外からはっきり見えず、皮膚・筋肉・腱・関節・内臓の壁そのものに含まれる。
つまり、体の端にある足の小指は、脳も場所が曖昧にしか把握できないからぶつける。
さて、手首の痛みはどうやら体性感覚の領域だろう。
手首という関節領域。そして、痛み。
整形外科に掛かった。
手首が痛い原因の特定のためレントゲン撮影。
骨折やヒビ等の疑いが否定された。
腫れているし関節炎ということだった。
内科に掛かった。
赤く腫れているが、発熱・倦怠感等の全身症状がなく感染性関節炎は否定。
左手首だからという理由かはわからないが血栓性静脈炎も否定。
繰り返すようなら血栓性静脈炎かもしれないから厄介。
ともあれ、消炎鎮痛剤と患部固定で様子を見ることに。
ふむ。
診察の結果はどうあれ対症療法で痛みが和らいだので安心ではある。
わからなくても痛い。
わかっても痛い。
となると、とにかく痛くないようになればええねん。と、思う他ない。
痛い時問題なのは、原因がわかったとて痛みが消えるわけではないこと。
逆に言えば、原因がわからなくとも痛みが消えれば問題は消えること。
ここで、冒頭の痛みをじっと見つめる自分の話。
今回の痛みで最高潮だったのが午前3時過ぎ。
動かさなくても痛い。
手首で脈動を感じ、ドクンドクンと痛みが襲う。
動かしても動かさなくても痛い。
汗が噴き出しやたらと熱く感じる。
そんな中、ふいに冷静になった。
「この痛い部分を無くすか、痛みを感じる自分を無くすかのせめぎ合いだ」
結論として、お尻の下に手首を潜り込ませることで妥協した。
「見えんようにしたし、あとは痛いと思わないことにしたらええねん。寝よ」
よくわからないが関西弁で自分に決着をつけた。
痛みは消失が望ましい。
痛みを見つめて思いついたのが痛みの根本から無くしてしまう。
その為には、患部を無くすか、痛みを感じる自分をも無くすか。
痛みに苦しむ時、自分はきっと客体で痛みが主体性を持っている。
痛みは、痛みを発動すべく行動するから痛いのだろう。
その客体として痛みを感じる自分がいる。
と言うのも、普段痛みを感じないのは痛みの原因がないからではないか。
痛いのが通常であれば、自分が痛みの主体で痛くしているのかもしれない。
けれどもそうではない。
もちろん慢性痛はあろうが、原因があって痛いのなら通常とは違う。
この場合、処世術の様に自分を痛みの客体として痛みを受容し日常化する。
痛みに対して主体性を持った自分の行動はでき得るだろう。
何より痛みの原因を喚起させないことに尽きる。
痛みは何故あんなにも強烈な痛みなのか。
瞬間的な痛みの強さは上に記した足の小指が物語る。
この場合、脳があまりよく把握できていないから警鐘を鳴らすのだろう。
そう思ってもあんまりな痛みではないか。
言うなれば、威嚇射撃にもかかわらず命中している様なもの。
しかも機関部に大打撃と言っていい。
「イツゥゥゥー」っと、声にならない声を出してうずくまり涙目。
やり場のない怒りを覚えて拳を固めるも力なく下ろすしかない。
少しの間をおき「なんでこんなに痛いんだ」
きっと、足の小指は寂しがり屋なんだと思ってみる。
場所もしっかり把握されない。
足の小指のおかげでと感謝されることも滅多になさそう。
感謝のされようからすると、手の指はきっと花形に違いない。
それに比べて足の小指の大舞台はどうだ。
ぶつけたときに思い出されるくらいしか思い浮かばない。
せめてこの時とばかりに張り切るも空回っている。
こんな風に痛みを見つめると少しは笑い話にもなる。
痛いけど。