文字は伝えるためのツールである。
しかし、それ以上の役割をも担いうるものである。
それは、何を伝えるためのツールであるのかによって決まるだろう。
事実や真実を伝えることは文字でできるだろうか。
事実と真実をわけること。
ここに働く何かは何だろうか。
そしてそれは、文字を文字以上にするものと関係するだろうか。
前置きはいつも書くように書いた。
タイトルもいつもとさして変わらないだろう。
何気なしに「いつも」と書いたが読者には違和感があるかもしれない。
一般的に、「いつも」には習慣的なニュアンスを受けるからだろう。
そうでなくても漢字で書けば「何時も」になる。
何時も=常にならそうなるのも頷ける。
けれども、それだけの意味で使われるわけでもないだろう。
普段とか大抵とかある程度の幅や例外を示している。
いつもの場所で、と、いつも笑顔の人では使い方が違う。
こんなことを気にしないことには、文字を読めないのだろうと思う。
つまるところ、違和感の原因は更新の幅が「何時も」の範疇を越えていること。
年を越え五ヶ月ぶりの作品が「いつも」の範疇としてふさわしくはないだろう。
そこが肝なのだと思う。
習慣といつもとの間にある関係性。
能動的な習慣の連続性・継続性の幅はルーズでもかまわないかも知れない。
これはやめない限り幅の範疇にあるから。
しかしながら、受動的な場合そうとは限らない。
少なくとも、記憶に、あるいは、印象に残っている間の幅をもって習慣だろう。
久々に覗いて更新を知った場合。
それは即ち、楽しみに待つ対象としての習慣から脱落している。
提供する側、提供される側の間にある感覚的な距離感は密接ではない。
ところで、タイトルをなんと読んだだろう?
ここにも書き手と読み手の感覚の差、文字の限界があるかもしれない。
イチドク イチケンカイ ノ ナンと読んだだろうか。
そう読んでいただいて結構。
読者には、読んで読みやすいように読む自由がある。
イチドク イッケン カイ ノ ナンと読んで欲しいと思って書いた。
この差は大きいと思う。
一読して一つの見解を持つのは難しい。
一読一見して理解するのは難しい。
どちらも難しいことを言うけれども対象の幅の違いがある。
と、いうようなことを本を読んだり映画を見たりしても注意してはくれない。
パラパラと読んでみて、何分か見てみて、内容から意味を知るしかない。
それがタイトルならそれでいい。
作品内容の重要な部分でこれと同じことが起こったらどうだろう。
そこに読み違いや思い違いが起きて作品の評価も変わってくるだろう。
これらが全て任されているからこそ、作品が作品としてあるのかもしれない。
発表したら作品は自分の手を離れるとは良く聞くフレーズである。
誤解を受けない表現と配慮をして発表していることが前提されるが。
それでもなお評価が分かれるなら、きっとこういう部分のせいなのだと思う。
伝えきれない何か、表現しきれない何か。
何かって何さ!?
ただ答えを聞いてそれでいいというものでもないだろう。
また、答えを用意することに納得しないで出される答えもあるだろう。
そんなわけで、あとがきだけの本と解説付の本とが出てくるのだと思えてくる。
そうだとしてもきっと、そこに答えはないだろう。
この作品の理解のためにこれとこれは必須ですなんてことは、ない。
必須は必須であってもちろん他にも必要になってくる。
それらが「何か」を構成する重要な要素であることはまず間違いないだろう。
具体的な例を一つ提示したい。
映画『ハンナ・アーレント』を少し前に観てきた。
予備知識がなければ後半になってからの部分でしかストーリーを紡げない。
そして、後半で紡いだストーリーを私は理解することはできないだろう。
これが現時点での感想である。
ストーリーを紡ぐのは作品に接した自分の中で行う作業。
この作業をしてこそ、接した作品が作品として認識されるのだと考えている。
この意味において私にとって『ハンナ・アーレント』は簡単ではなかった。
予備知識が貧弱だったことが要因だが、それだけではないと断言できる。
私は日本に生まれ戦争を経験していない。
そして、知る限りにおいて私は日本人である。
作品で語られたことをここで書くことはできる。
それは理解しているからではない。
作品の要素を抜き出すだけだからできるに過ぎない。
理解とはそれだけのものではない。
理解に至らずとも解らないことが解ったのは重要だと思う。
何故理解できないのか。
民族と宗教と歴史が違うゆえにというところか。
これらが違っていても、例えば、愛を育むことはできよう。
しかしながら、思考はそうではない。
人に関わることにおいて、殊に、為されたことにおいては重要である。
民族問題を理解することは誰にとっても困難であろうと思われる。
異文化交流をして風土を肌で感じ、肌に馴染んでもきっとそれは違うこと。
「どこの」が先行し「何を」が追従する。
最後にそれを為した「誰」が行為を固定化する。
これは気をつけてニュースを聞くと気づきやすいかもしれない。
名誉なニュースは誰が先。
事件等はどこが先。
事件は場所の特定で大多数の不安の緩和があろうとは考えられるが。
例えば、海外の事件で昨年のボストンマラソン爆発事件。
一報はボストンマラソンで爆発事件が発生だった。
イスラム過激派の関与するテロかとも報じられた。
日本人被害者の有無も伝えられた。
最終的にチェチェン系の兄弟によるものとなった。
「どこの」とはこういうことを指す。
テロ行為をするのは○○系というような前提から入る。
この事件では映像と情報を元に容疑者を特定したようだ。
アメリカにおいてはこれが円滑に行えるようにシステムを構築した。
重要なのは、アメリカではテロリストをリストアップしていること。
さらに重要なのは、そのことを対外的にも公表していること。
思想的にマークすることで行為と結び付けやすくしている。
一歩踏み込めば、思想的な拠点となる地域を特定している。
これが9.11を教訓に対策を講じた結果だった。
としても、起こりかねない事態だった場合のことはほぼ報せられない。
話を少し戻して、「どこの」「何を」「誰が」である。
5W1Hが浮かぶかもしれない。
けれど、実際には次のフレーズで覚えているのではないか。
いつ、どこで、誰が、何を、どうした。
小学生頃にお楽しみ会等でやった記憶があるかもしれない。
紙にいつ、どこで、誰が、何を、どうしたのかを書いて各々箱に入れる。
各々の箱から1枚ずつ引いて組み合わせるゲーム。
これは4W1Hであり、なぜ?は問題視されない。
動機はどうあれ、ある日どこかで誰かが何かしらの行動をとる。
そこにあるのはまさに日常。
自分と接点のないところでの行動に意味も理由も必要ない。
そういう土台があるとしたらこれは恐ろしいことではないか。
平時の無関心。時事の糾弾心。
誰かがいる所何かが起こる。
いつもは無関心なのにいざ事が起こると原因究明と責任追及。
元々なぜ?のないところには責任もないのではないのか。
人は話題を渇望しているのか。
ならば、それに伴って原因から結果へ至る経過の思考を行うべきだ。
物事を判断するためには物事を正しく認識せねばならない。
認識するためには、知らなければならないし、思考せねばならない。
そこを抜きにして感情的に糾弾するのはヒステリー以外の何物でもない。
悪事が行われた時、行為としての悪事が行為者に属するものかどうか。
行為者に属するとはどういうことか。
拒否もせず、支持もせず行われた行為の結果は裁けるのか。
悪事を行う意思は特定の立場にあれば当然導き出される帰結なのか。
それは、そういうことでなければ裁けないから出た理屈ではないのか。
人を介したにも拘わらず結果しか出なかった悪事。
このような思考が「凡庸な悪」として示されたことは大きい。
映画『ハンナ・アーレント』ではしかし、それよりも重い。
アメリカ人作家で親友のメアリーは最後までハンナの支持者でいた。
それは、民族問題を括弧に入れられたからだったのだろうと思える。
旧学の仲間はみな括弧に入れるべき問題を入れられずにいる。
訴えたいこと、伝えたいことに付随する情報が益であるとは限らない。
けれど、本質を、そして、事実を求めるならば認識し思考すれば見える。
そうでなければ、「凡庸な悪」は身近にあるのであり簡単に堕ちてしまう。
だがしかし、括弧に入れた問題もいつか出さねばならない。
ここで括弧に入れたものを出した後のことを考えることが私にはできない。
上で述べた、紡いだストーリーを理解できないとはこのことである。
さらに、前置きで投げかけた「何か」へのいくつかの答えも述べた。
書き手として記事を書き上げた。
あとは読み手に紡いでもらう他にできることはないように思える。
しかし、それ以上の役割をも担いうるものである。
それは、何を伝えるためのツールであるのかによって決まるだろう。
事実や真実を伝えることは文字でできるだろうか。
事実と真実をわけること。
ここに働く何かは何だろうか。
そしてそれは、文字を文字以上にするものと関係するだろうか。
前置きはいつも書くように書いた。
タイトルもいつもとさして変わらないだろう。
何気なしに「いつも」と書いたが読者には違和感があるかもしれない。
一般的に、「いつも」には習慣的なニュアンスを受けるからだろう。
そうでなくても漢字で書けば「何時も」になる。
何時も=常にならそうなるのも頷ける。
けれども、それだけの意味で使われるわけでもないだろう。
普段とか大抵とかある程度の幅や例外を示している。
いつもの場所で、と、いつも笑顔の人では使い方が違う。
こんなことを気にしないことには、文字を読めないのだろうと思う。
つまるところ、違和感の原因は更新の幅が「何時も」の範疇を越えていること。
年を越え五ヶ月ぶりの作品が「いつも」の範疇としてふさわしくはないだろう。
そこが肝なのだと思う。
習慣といつもとの間にある関係性。
能動的な習慣の連続性・継続性の幅はルーズでもかまわないかも知れない。
これはやめない限り幅の範疇にあるから。
しかしながら、受動的な場合そうとは限らない。
少なくとも、記憶に、あるいは、印象に残っている間の幅をもって習慣だろう。
久々に覗いて更新を知った場合。
それは即ち、楽しみに待つ対象としての習慣から脱落している。
提供する側、提供される側の間にある感覚的な距離感は密接ではない。
ところで、タイトルをなんと読んだだろう?
ここにも書き手と読み手の感覚の差、文字の限界があるかもしれない。
イチドク イチケンカイ ノ ナンと読んだだろうか。
そう読んでいただいて結構。
読者には、読んで読みやすいように読む自由がある。
イチドク イッケン カイ ノ ナンと読んで欲しいと思って書いた。
この差は大きいと思う。
一読して一つの見解を持つのは難しい。
一読一見して理解するのは難しい。
どちらも難しいことを言うけれども対象の幅の違いがある。
と、いうようなことを本を読んだり映画を見たりしても注意してはくれない。
パラパラと読んでみて、何分か見てみて、内容から意味を知るしかない。
それがタイトルならそれでいい。
作品内容の重要な部分でこれと同じことが起こったらどうだろう。
そこに読み違いや思い違いが起きて作品の評価も変わってくるだろう。
これらが全て任されているからこそ、作品が作品としてあるのかもしれない。
発表したら作品は自分の手を離れるとは良く聞くフレーズである。
誤解を受けない表現と配慮をして発表していることが前提されるが。
それでもなお評価が分かれるなら、きっとこういう部分のせいなのだと思う。
伝えきれない何か、表現しきれない何か。
何かって何さ!?
ただ答えを聞いてそれでいいというものでもないだろう。
また、答えを用意することに納得しないで出される答えもあるだろう。
そんなわけで、あとがきだけの本と解説付の本とが出てくるのだと思えてくる。
そうだとしてもきっと、そこに答えはないだろう。
この作品の理解のためにこれとこれは必須ですなんてことは、ない。
必須は必須であってもちろん他にも必要になってくる。
それらが「何か」を構成する重要な要素であることはまず間違いないだろう。
具体的な例を一つ提示したい。
映画『ハンナ・アーレント』を少し前に観てきた。
予備知識がなければ後半になってからの部分でしかストーリーを紡げない。
そして、後半で紡いだストーリーを私は理解することはできないだろう。
これが現時点での感想である。
ストーリーを紡ぐのは作品に接した自分の中で行う作業。
この作業をしてこそ、接した作品が作品として認識されるのだと考えている。
この意味において私にとって『ハンナ・アーレント』は簡単ではなかった。
予備知識が貧弱だったことが要因だが、それだけではないと断言できる。
私は日本に生まれ戦争を経験していない。
そして、知る限りにおいて私は日本人である。
作品で語られたことをここで書くことはできる。
それは理解しているからではない。
作品の要素を抜き出すだけだからできるに過ぎない。
理解とはそれだけのものではない。
理解に至らずとも解らないことが解ったのは重要だと思う。
何故理解できないのか。
民族と宗教と歴史が違うゆえにというところか。
これらが違っていても、例えば、愛を育むことはできよう。
しかしながら、思考はそうではない。
人に関わることにおいて、殊に、為されたことにおいては重要である。
民族問題を理解することは誰にとっても困難であろうと思われる。
異文化交流をして風土を肌で感じ、肌に馴染んでもきっとそれは違うこと。
「どこの」が先行し「何を」が追従する。
最後にそれを為した「誰」が行為を固定化する。
これは気をつけてニュースを聞くと気づきやすいかもしれない。
名誉なニュースは誰が先。
事件等はどこが先。
事件は場所の特定で大多数の不安の緩和があろうとは考えられるが。
例えば、海外の事件で昨年のボストンマラソン爆発事件。
一報はボストンマラソンで爆発事件が発生だった。
イスラム過激派の関与するテロかとも報じられた。
日本人被害者の有無も伝えられた。
最終的にチェチェン系の兄弟によるものとなった。
「どこの」とはこういうことを指す。
テロ行為をするのは○○系というような前提から入る。
この事件では映像と情報を元に容疑者を特定したようだ。
アメリカにおいてはこれが円滑に行えるようにシステムを構築した。
重要なのは、アメリカではテロリストをリストアップしていること。
さらに重要なのは、そのことを対外的にも公表していること。
思想的にマークすることで行為と結び付けやすくしている。
一歩踏み込めば、思想的な拠点となる地域を特定している。
これが9.11を教訓に対策を講じた結果だった。
としても、起こりかねない事態だった場合のことはほぼ報せられない。
話を少し戻して、「どこの」「何を」「誰が」である。
5W1Hが浮かぶかもしれない。
けれど、実際には次のフレーズで覚えているのではないか。
いつ、どこで、誰が、何を、どうした。
小学生頃にお楽しみ会等でやった記憶があるかもしれない。
紙にいつ、どこで、誰が、何を、どうしたのかを書いて各々箱に入れる。
各々の箱から1枚ずつ引いて組み合わせるゲーム。
これは4W1Hであり、なぜ?は問題視されない。
動機はどうあれ、ある日どこかで誰かが何かしらの行動をとる。
そこにあるのはまさに日常。
自分と接点のないところでの行動に意味も理由も必要ない。
そういう土台があるとしたらこれは恐ろしいことではないか。
平時の無関心。時事の糾弾心。
誰かがいる所何かが起こる。
いつもは無関心なのにいざ事が起こると原因究明と責任追及。
元々なぜ?のないところには責任もないのではないのか。
人は話題を渇望しているのか。
ならば、それに伴って原因から結果へ至る経過の思考を行うべきだ。
物事を判断するためには物事を正しく認識せねばならない。
認識するためには、知らなければならないし、思考せねばならない。
そこを抜きにして感情的に糾弾するのはヒステリー以外の何物でもない。
悪事が行われた時、行為としての悪事が行為者に属するものかどうか。
行為者に属するとはどういうことか。
拒否もせず、支持もせず行われた行為の結果は裁けるのか。
悪事を行う意思は特定の立場にあれば当然導き出される帰結なのか。
それは、そういうことでなければ裁けないから出た理屈ではないのか。
人を介したにも拘わらず結果しか出なかった悪事。
このような思考が「凡庸な悪」として示されたことは大きい。
映画『ハンナ・アーレント』ではしかし、それよりも重い。
アメリカ人作家で親友のメアリーは最後までハンナの支持者でいた。
それは、民族問題を括弧に入れられたからだったのだろうと思える。
旧学の仲間はみな括弧に入れるべき問題を入れられずにいる。
訴えたいこと、伝えたいことに付随する情報が益であるとは限らない。
けれど、本質を、そして、事実を求めるならば認識し思考すれば見える。
そうでなければ、「凡庸な悪」は身近にあるのであり簡単に堕ちてしまう。
だがしかし、括弧に入れた問題もいつか出さねばならない。
ここで括弧に入れたものを出した後のことを考えることが私にはできない。
上で述べた、紡いだストーリーを理解できないとはこのことである。
さらに、前置きで投げかけた「何か」へのいくつかの答えも述べた。
書き手として記事を書き上げた。
あとは読み手に紡いでもらう他にできることはないように思える。