独り言小劇場

答えの出ない事柄を徒然に不定期に書き留めてみる場所。

学び

一読一見解之難。

文字は伝えるためのツールである。
しかし、それ以上の役割をも担いうるものである。
それは、何を伝えるためのツールであるのかによって決まるだろう。
事実や真実を伝えることは文字でできるだろうか。
事実と真実をわけること。
ここに働く何かは何だろうか。
そしてそれは、文字を文字以上にするものと関係するだろうか。

前置きはいつも書くように書いた。
タイトルもいつもとさして変わらないだろう。
何気なしに「いつも」と書いたが読者には違和感があるかもしれない。
一般的に、「いつも」には習慣的なニュアンスを受けるからだろう。
そうでなくても漢字で書けば「何時も」になる。
何時も=常にならそうなるのも頷ける。
けれども、それだけの意味で使われるわけでもないだろう。
普段とか大抵とかある程度の幅や例外を示している。
いつもの場所で、と、いつも笑顔の人では使い方が違う。
こんなことを気にしないことには、文字を読めないのだろうと思う。
つまるところ、違和感の原因は更新の幅が「何時も」の範疇を越えていること。
年を越え五ヶ月ぶりの作品が「いつも」の範疇としてふさわしくはないだろう。
そこが肝なのだと思う。
習慣といつもとの間にある関係性。
能動的な習慣の連続性・継続性の幅はルーズでもかまわないかも知れない。
これはやめない限り幅の範疇にあるから。
しかしながら、受動的な場合そうとは限らない。
少なくとも、記憶に、あるいは、印象に残っている間の幅をもって習慣だろう。
久々に覗いて更新を知った場合。
それは即ち、楽しみに待つ対象としての習慣から脱落している。
提供する側、提供される側の間にある感覚的な距離感は密接ではない。

ところで、タイトルをなんと読んだだろう?
ここにも書き手と読み手の感覚の差、文字の限界があるかもしれない。
イチドク イチケンカイ ノ ナンと読んだだろうか。
そう読んでいただいて結構。
読者には、読んで読みやすいように読む自由がある。
イチドク イッケン カイ ノ ナンと読んで欲しいと思って書いた。
この差は大きいと思う。
一読して一つの見解を持つのは難しい。
一読一見して理解するのは難しい。
どちらも難しいことを言うけれども対象の幅の違いがある。
と、いうようなことを本を読んだり映画を見たりしても注意してはくれない。
パラパラと読んでみて、何分か見てみて、内容から意味を知るしかない。
それがタイトルならそれでいい。
作品内容の重要な部分でこれと同じことが起こったらどうだろう。
そこに読み違いや思い違いが起きて作品の評価も変わってくるだろう。
これらが全て任されているからこそ、作品が作品としてあるのかもしれない。
発表したら作品は自分の手を離れるとは良く聞くフレーズである。
誤解を受けない表現と配慮をして発表していることが前提されるが。
それでもなお評価が分かれるなら、きっとこういう部分のせいなのだと思う。
伝えきれない何か、表現しきれない何か。

何かって何さ!?
ただ答えを聞いてそれでいいというものでもないだろう。
また、答えを用意することに納得しないで出される答えもあるだろう。
そんなわけで、あとがきだけの本と解説付の本とが出てくるのだと思えてくる。
そうだとしてもきっと、そこに答えはないだろう。
この作品の理解のためにこれとこれは必須ですなんてことは、ない。
必須は必須であってもちろん他にも必要になってくる。
それらが「何か」を構成する重要な要素であることはまず間違いないだろう。

具体的な例を一つ提示したい。
映画『ハンナ・アーレント』を少し前に観てきた。
予備知識がなければ後半になってからの部分でしかストーリーを紡げない。
そして、後半で紡いだストーリーを私は理解することはできないだろう。
これが現時点での感想である。
ストーリーを紡ぐのは作品に接した自分の中で行う作業。
この作業をしてこそ、接した作品が作品として認識されるのだと考えている。
この意味において私にとって『ハンナ・アーレント』は簡単ではなかった。
予備知識が貧弱だったことが要因だが、それだけではないと断言できる。
私は日本に生まれ戦争を経験していない。
そして、知る限りにおいて私は日本人である。
作品で語られたことをここで書くことはできる。
それは理解しているからではない。
作品の要素を抜き出すだけだからできるに過ぎない。
理解とはそれだけのものではない。

理解に至らずとも解らないことが解ったのは重要だと思う。
何故理解できないのか。
民族と宗教と歴史が違うゆえにというところか。
これらが違っていても、例えば、愛を育むことはできよう。
しかしながら、思考はそうではない。
人に関わることにおいて、殊に、為されたことにおいては重要である。
民族問題を理解することは誰にとっても困難であろうと思われる。
異文化交流をして風土を肌で感じ、肌に馴染んでもきっとそれは違うこと。
「どこの」が先行し「何を」が追従する。
最後にそれを為した「誰」が行為を固定化する。
これは気をつけてニュースを聞くと気づきやすいかもしれない。
名誉なニュースは誰が先。
事件等はどこが先。
事件は場所の特定で大多数の不安の緩和があろうとは考えられるが。

例えば、海外の事件で昨年のボストンマラソン爆発事件。
一報はボストンマラソンで爆発事件が発生だった。
イスラム過激派の関与するテロかとも報じられた。
日本人被害者の有無も伝えられた。
最終的にチェチェン系の兄弟によるものとなった。
「どこの」とはこういうことを指す。
テロ行為をするのは○○系というような前提から入る。
この事件では映像と情報を元に容疑者を特定したようだ。
アメリカにおいてはこれが円滑に行えるようにシステムを構築した。
重要なのは、アメリカではテロリストをリストアップしていること。
さらに重要なのは、そのことを対外的にも公表していること。
思想的にマークすることで行為と結び付けやすくしている。
一歩踏み込めば、思想的な拠点となる地域を特定している。
これが9.11を教訓に対策を講じた結果だった。
としても、起こりかねない事態だった場合のことはほぼ報せられない。

話を少し戻して、「どこの」「何を」「誰が」である。
5W1Hが浮かぶかもしれない。
けれど、実際には次のフレーズで覚えているのではないか。
いつ、どこで、誰が、何を、どうした。
小学生頃にお楽しみ会等でやった記憶があるかもしれない。
紙にいつ、どこで、誰が、何を、どうしたのかを書いて各々箱に入れる。
各々の箱から1枚ずつ引いて組み合わせるゲーム。
これは4W1Hであり、なぜ?は問題視されない。
動機はどうあれ、ある日どこかで誰かが何かしらの行動をとる。
そこにあるのはまさに日常。
自分と接点のないところでの行動に意味も理由も必要ない。
そういう土台があるとしたらこれは恐ろしいことではないか。
平時の無関心。時事の糾弾心。
誰かがいる所何かが起こる。
いつもは無関心なのにいざ事が起こると原因究明と責任追及。
元々なぜ?のないところには責任もないのではないのか。

人は話題を渇望しているのか。
ならば、それに伴って原因から結果へ至る経過の思考を行うべきだ。
物事を判断するためには物事を正しく認識せねばならない。
認識するためには、知らなければならないし、思考せねばならない。
そこを抜きにして感情的に糾弾するのはヒステリー以外の何物でもない。
悪事が行われた時、行為としての悪事が行為者に属するものかどうか。
行為者に属するとはどういうことか。
拒否もせず、支持もせず行われた行為の結果は裁けるのか。
悪事を行う意思は特定の立場にあれば当然導き出される帰結なのか。
それは、そういうことでなければ裁けないから出た理屈ではないのか。
人を介したにも拘わらず結果しか出なかった悪事。
このような思考が「凡庸な悪」として示されたことは大きい。
映画『ハンナ・アーレント』ではしかし、それよりも重い。
アメリカ人作家で親友のメアリーは最後までハンナの支持者でいた。
それは、民族問題を括弧に入れられたからだったのだろうと思える。
旧学の仲間はみな括弧に入れるべき問題を入れられずにいる。
訴えたいこと、伝えたいことに付随する情報が益であるとは限らない。
けれど、本質を、そして、事実を求めるならば認識し思考すれば見える。
そうでなければ、「凡庸な悪」は身近にあるのであり簡単に堕ちてしまう。
だがしかし、括弧に入れた問題もいつか出さねばならない。
ここで括弧に入れたものを出した後のことを考えることが私にはできない。
上で述べた、紡いだストーリーを理解できないとはこのことである。
さらに、前置きで投げかけた「何か」へのいくつかの答えも述べた。
書き手として記事を書き上げた。
あとは読み手に紡いでもらう他にできることはないように思える。

色眼鏡をいかに外すか。

例えば、消しゴムは使いきれるか?との問題提起をする。
この話題に乗れる人と乗れない人がいる。
どちらに対しても良し悪しは決められない。
しかしながら、乗れる人を好ましく思う。
この時点で「好ましい」という色眼鏡がかかっている。
もし「つまらん奴」と思ったとしても言わなければいい。
乗れる相手でなくても、こう言われたらどうだろう?
「何か、消しゴムって気がつくとどっか行ってるわ」
なるほど、この意味で私も使いきった経験がない。
実生活上でのある種の答えが出た。
だが、この意味での問いかけではない。
話が噛み合わなくとも会話が成立する。
ところが、こう来るとどうにもならない。
「消しゴムが使いきれるか?だから何なの?」

他の例として、絵画展に出かけた場合を考える。
目玉の作品というのが用意されている。
下世話な話、相当高価である。
ここで色眼鏡がかかっている。
相当の絵を期待するけれど、基準が貨幣である時点でそもそも不安定。
1万円が1万円の価値を持ち続けていればいいが、そうではない。
「今の金額に換算して」とのフレーズを思い出すとわかりやすい。
それは置くとして、市場価値が絶対的指標でないことを忘れがち。
市場価値の高い物が芸術的価値として高いのではない。
芸術的価値は、「芸術に対して」価値があること。
芸術に対して価値があることは「市場価値としても」価値がある。
第一義的には、芸術が芸術に貢献したことの価値だと思う。
芸術的価値を英訳すると2通り出る。
・artistic merit  メリットは称賛に値する価値
・artistic value ヴァリューは実際的な有用性・重要性からみた価値,値打ち
美術品を見に行くのか芸術品を見に行くのか混同することがある。
どちらかとして割り切れるかどうか難しい。
美術品であれば、「特別な絵だからきっと高価だろう」でいい。
芸術品であれば、「特別な扱いを受けるのも納得」がいいのかもしれない。
高価であると言われなくとも、「特別」であると知らされる(感じさせられる)。
その特別が何に根差すのかを確かめに見に行くのだから。

さて、色眼鏡がかかることは良いことか悪いことか。
それ以前に、色眼鏡とは何か。
その後、色眼鏡は何故かかるのか。
色眼鏡がかかるのは良いことか悪いことかへと順を追いたい。

色眼鏡は、先入観のような概念、あるいは、サングラス。
必要だから用いることが多いのだろう。
先入観は予備知識を持つことで理解を促進するかもしれない。
しかしながら、知識などに捉われると偏見につながるかもしれない。
このことをサングラスが象徴的に物語るのではないか。
強い陽射しを防ぐけれども視界が悪くなる。

色眼鏡がかかるのは何故だろう。
かけたからと言えばそれまでだが、では、何故かけたのか。
円滑に進めたい。
対象への理解の補助的作用としてかける。
そのかけ方がまずいと問題が発生するのではないか。
理解を妨げるのは、予備知識を吟味しないゆえか。
鵜呑みにすると判断基準が自身の内側に根付かない。
よって、付随的な一般化された基準に頼ることになる。

結局のところ色眼鏡は良いのか悪いのか。
単純化すると、良い時も悪い時もあるし、関係ない時もある。
対象物に対して直感的に「いい!」と思う時や「好き」と思う時、関係ない。
そして、それ以上に明確な評価を下せないだろう。
精査し、分析し、芸術としてその成り立ちを解明するのでなければ。
好きな絵でないけれど技法などが素晴らしく芸術的価値は高い。
このような価値判断をする評価者は専門家でないと難しそうに思う。
だがどうだろう、専門家は芸術的価値が高いけれど嫌いな絵はないのか?
この疑問はそこに色眼鏡の存在を確かめなければ解決しなさそうだ。
そして、その対象たる専門家でない自分では確かめようがない。
ただ、「専門家なら」という色眼鏡をかけて思いを巡らせるだけである。

大学が欲しい人材。

わからないことがあまりにも数多くある。
この頃は、恥ずかしさを覚える以上に申し訳なく感じる程。
こんなだからなのだろうと納得させたことがある。
学士入試の失敗である。
結果が出たのは1月以上前。
2000字の小論文と面接試験だった。

小論文の設問は「リスク社会と科学技術の関係」について考えを述べよ。
正直、真剣に考えたことのないテーマだった。
リスク社会を定義することから始めて、1900字程度で書いた。
論理的に記述できたとは思うもののいい内容かどうかは不明。
尤も、小論文の出来栄えに関わらず面接で不合格となったのは確かだろう。

面接では真っ先に志望動機を問われた。
(ちなみに、福祉系大学の臨床心理専攻コースを受験)
学問したい旨を伝えたが反応は薄かった。
面接が進むにつれ残念な気持ちでいっぱいになっていった。

以下、Qが面接官Aを私の発言とする。
Q.年齢が高いけれども就職はどう考えていますか?
A.専門を活かした職場を希望します。病院でも施設でも。

Q.法学部卒なので単位認定が厳しい。2年で卒業は難しい。どうしますか?
A.もちろん2年で終わるように取り組みます。

Q.終わらない場合を訊いてます。3年かかったらどうしますか?
A.どうしてもそうならざるを得ないなら仕方がないです。でも、終わるように取り組みます。

Q.2年で終わらないと困ることでも?
A.できるだけ年限で終わらせたいと思うものだと思いますが…。別段の理由はないです。

Q.覚悟を持たないとだめです。3年かかった時と2年で終わらせる覚悟と。
とにかく卒業まで3年。年齢がさらに高くなる。就職は非常に厳しい。どうしますか?
A.はい。あの、すいません。大学は就職するためにあるのでしょうか?

Q.大学で勉強だけして後のことは考えていないと?
A.学問分野に興味を持って学びたいから受験するのではいけませんか?

Q.こちらも受け入れるからには責任がある。後の事を考えてもらわないと困る。
A.そうですか。ですが、学んで身に付けたものを活かす考えなのに現時点でわかるでしょうか?

Q.計画性をもった行動をとることも社会人として必要な事だよ。お勤めしていらっしゃいますね?
A.はい。縁あって仕事させていただいてます。

Q.今のご時世でね、縁あって仕事できてるならそちらを大事になさい。
A.え〜と、つまり、学びたい思いは受け入れられないということですか?

Q.そうは言っていません。そうそう、志願書に声が出なくなっと書いてある。どういうことです?
A.志望動機の1つです。心と体のつながりを考えさせられました。学びたいテーマでもあります。

Q.具体的には…?
A.腹に据えかねる事があって大声で反論しました。3日程全然寝られず声が出なくなっていました。

Q.ふむ。それで?
A.病院に通うようになってそれが4年くらいですか。段々と声が出るようになっていました。

Q.ふむ。それがきっかけで勉強したいと。
A.はい。それだけではないですが、強い動機にはなっています。

Q.なるほど。もしですよ、これから先、また声が出なくなったらどうしますか?
A.え?いや、どうしますかと言われても…。なんとも言えないです。

Q.色々支障があるでしょう?
A.そうですね…。そうならないようにこれまでの事を考えたり、専門知識を学びたいのですが…。

Q.そうですか。はい、結構です。
A.ありがとうございました…。

印象に残っていて忘れられない部分はこんなやりとり。
これは一体何だったんだろう?
試験日当日から今でも解決できずにいる思い。
ともあれ、大学が欲する人材でなかったのだと納得はしている。

歳はとるもんじゃないなとか、大学はもはや学問の場ではないのだなとか。
思ったことは多い。
そして、それらが全部寂しい思いにつながっている。
その結果として、1つの決意と1つの反骨精神の綯い交ぜを抱いている。
同じ大学の通信教育部で志望する学問をしよう。
あてつけの様だが学びたい気持ちに嘘はないし、面接官だった教授の講義に興味がある。
通信なら毎週顔を合わせるわけではない。
お互いにさほど嫌でもないだろう。

おしまいにこれは明記しておかなければならないだろう。
合否通知書にはこう書いてあった。
今回、遺憾ながら意に沿う結果をお伝えできませんでした。
この文面と後期学士入試の日程とが印刷されたB5用紙1枚。
これが学士入試のすべてだった。

通知書を見た時思わず呟いた言葉は忘れないだろう。
「もう一度受験して面接受けたら何か変わるんか?」

大学の勉強。

大学での勉強とは何だろう?
学部学科での専門科目の他、一般教養がある。
教養として身につけるべき教養に線引きは出来るだろうか?

以前、首都圏のある大学のシラバス(講義情報)がネットで話題になったそうだ。
「正しい仮名づかいと送り仮名の練習」や「句読点・表記符号の使い方」「分数・少数の計算方法」など。
中学校や高校で履修する内容だったことから、「何のために大学行くのか」「高卒のほうがマシだ」などの批判があったとされる。
これに対し、批判された大学の学長が「現実の学生と向き合い、学力の不足する大学生に対する補習教育に真正面から取り組む姿勢が本学の特色」と週刊誌に反論を掲載。

これは少なからず考えさせられる。
ここで批判されるような講義を大学で受けなかったからかもしれないが、いつも使っている日本語が正しい日本語かどうかすこぶる怪しい。
正しい仮名づかいを教えてもらえるなら大変ありがたい。
また、句読点を打つ位置についても確実に使えているとは言い難い。
そもそも、句点はさておき、読点の打ち方を習った覚えがない。
決まりがあるのなら習っておきたい。
勉強は習って邪魔にはならない。
考える段階で知識が邪魔になったり、要素が煩雑で収拾をつけられなくなることがある。
考えを表現し、思考する道具を万端に整えるのは批判される事柄だろうか?

さて、読み書きだけではない。
分数や少数の計算にも触れておきたい。
未だもってわからないことがある。
3/4と0.75が同じなのはいい。
2/3と同数を少数で正確に表せないのがわからない。
1個のケーキを3人で分けて1人分を表す問題。
1/3でいいのならいい。
1人分がどの程度の量かもいい。
実際生活において、大きさが違っても3つに分ければ1人分は1/3。
これは納得できる。
しかし、だ。
それを少数で表すと、割り切れずに四捨五入の技が必要になる。
実際にはナイフにクリームやスポンジが付いているかもしれない。
よって、1人分の量が正確に表せなくてもいい。
これは1/3にも含まれている事実だろう。
けれど、1/3と0.333...はどうだろう。
1つに復元する際に1になるのと0.999...とではしっくりこない。
だからと言ってこのことが実際生活に支障をきたすわけではない。
知識はそれでいい。
「π=大体3」で教えられた人も、小数点以下4万桁を暗記する人もいる。
どちらにしても半径5cmを示されればコンパスで同様の円が描けるのだから。

これらの事から学ぶべきことがあるとしたら何だろう。
確定できないことでも決まりがあると便利だから決まりがある。
決まりの成り立ちを知り、使い方を知り、読み解き方を知る。
これらを知ることが学ぶことではなかろうか。

日々多感。

書こうとすら思われない日々が続いている。
やっと書きだした今この瞬間もその思いに変わりはない。
だが、これまでの日々において心の動かなかった日はない。
このことが良くもあり悪くもあって書く意欲とならなかった。

ある日においては、思いが大きくなりすぎて想いに負けていた。
ある日においては、思いが深くなりすぎて言葉にならずにいた。
総じて気持ちが言葉になる以前の「何か」のまま悶々とわだかまる。
ある時期から澱となり重く気持ちごと沈み込んでいた。
明るい話題もあったがそれを取り上げる余裕はなかった。
ポジティブもネガティブもその延長線上を見てたじろいだ。

7月は1度も書かなかった。
この事実を以前は重大な事と捉えただろうけれども、現在は少し違う。
8月に書けたからいいのではないかと。
鬱屈し悶々とした日々の中にあって書こうとの爆発力が生じた。
単純に驚きを覚える。

8月は特別なのだと改めて思う。
戦争と平和に思いを巡らせる時、兵器が介在する必要はないのだと感じた。
もはや、戦闘行為のみが戦争ではない。
力の行使は総じて闘争なのではないか。
いかにして力を律するか。
このことが非常に重要な課題なのではないか。
端的に言えば、力の平和利用の可能性をも再考すべき時かもしれない。

原爆と原発。
原子爆弾と原子力発電。
ある意味においてイコールだとの意見が聞かれた。
同感であるが捉え方は異なる。
聞かれたのは危機的な状況に置かれている場合、同等との考え方だったから。
原子爆弾を使用した側にとってのそれは平和利用である。
自国民を戦禍にさらさないために講じた戦闘行為の手段である。
敵国に被害が及ぶことが戦果となる非常時の事であり評価は難しい。

平和利用という言葉の意味するところがわからなくなった。
動力として原子炉を用いている原子力空母や原子力潜水艦は兵器である。
さて、原子力発電所と何が違うのか。
発電を目的とする発電所と、動力を得る目的の軍用艦船の違いはある。
目的の先にあるものの違いだけでまったく別物になるのだろうか。
単に反原子力を訴えたいのではない。

原子力が根絶されることは必ずしも善ではない。
少なくとも現在の生活レベルを下げないことを前提にすれば悪である。
これまでの原子力利用実績を振り返ることも必要ではないか。
もとより人知が及ばない対象ならば、これまでの実績は0であったはず。
しかしそうではない。
扱い方がわからなかったのではなく、扱う上で注意すべき点に欠陥があった。
最悪の事態が想定された以上の最悪さであった。
となれば、原子力がもたらし得る効果を両面的に再考すればいい。
表裏一体の力の制御が簡単でないことは想像に難くない。
特に軍事利用の暴発で平和的結果が起こるとは思えない。

今年の広島・長崎での平和宣言は例年と趣を異にしていた。
原爆投下の被害のみならず、事故による原子力の影響を体験している。
これに言及しての宣言を受け首相は原子力に依存しない社会作りを明言した。
恐ろしきは関わらず。
それで解決するとは思われない。
代替エネルギーを模索するだけでは変わらない。
高エネルギーに依拠したシステムには言及されない。
加速していく流れに逆らうことが悪であるかのように思われる。
戻ることが出来るのにそれは極力避けたい。
この本音が見えた上で、戻る選択をうながして効果が期待できるだろうか。
より安全で安心な技術の向上を目指すことが進歩のように思われた。
この進歩を止めることは英断だとは思えない。
原子力の脅威を取り除くためには今まで以上に理解を深めなければならない。
無くなることのない放射性物質が堆積した地球もまた無くならないのだから。

ところで、この頃何をどう考えればいいのかがわからない。
考えた先に見えたものも信じられない。
言葉にして出すことに後ろめたさを覚える。
震災後すぐには生きているだけでよかったのかもしれない。
5ヵ月たった今、何かしら行動しなければならないのかもしれない。
例えば、元に戻す為の活動も「生の行使」だろう。
ところが、戻るが出来ない人達はどうすればいいのか。
迷わず進めばいいなどと簡単にはいかない。
ある人にとって時間は静止したままということがあり得る。
進むことも戻ることもままならない人を責めることは出来ない。
何を以って責めるなど出来ようか。
そして、責める側は何も責められることなど無いとどうして言い得るのか。

言葉になっていないかもしれない。
希薄な文字しか書けていないかもしれない。
それでも文字を書くことが出来たのは「生の行使」であると思いたい。
再び言葉を綴るのが目標であり、生の目的と定めて生きる。
これが現時点での精一杯かもしれないと感じる。

有象無象仮象。

見える様にすることは大事なのだろうか?
本性を明らかにするつもりで仮象にならざるを得ない。
見えないからこそ本物で見えてしまえば贋物で。
大体にして1対1対応でいいことではないのか。
この場合にこそ、あたたかみや実感として伝わるのではないか。

何が腑に落ちないのかと言えばACのCM。
どうもしっくりこない。
啓発活動にもかかわらず、啓発される気がしない。
むしろ反発を覚える。
性根が曲がっているからかもしれない。
それならそれとして、その事も含めて考えたい。

こころは誰にも見えないけれど、こころづかいは見える。
思いは見えないけれど、思いやりはだれにでも見える。
宮澤章二「行為の意味」より

CMで引用され頻繁に放映されている。
宮澤章二は詩人。
その人の詩集に収められた言葉である。

CMの構成としては高校生が通学電車内で妊婦を見かける。
女性が席を譲り会釈をして妊婦が座る。
この出来事がきっかけとなって後半の実践へとつながる。
階段で杖をついて登る高齢の女性を見かける。
一度通り過ぎるも戻って手を引いて一緒に登る。
流れとしてはわかりやすい。
見えたことが気づきにつながったのは大きい。
そう思わされる。
しかしながら、こころは見えない。
妊婦に席を譲った女性のこころづかいは見えた。
では、何故こころに重点をおいたのか。

気持ちは見えないけれど、気配りは見える。
これでは何故いけなかったのか。
たぶん、気持ちは見えるからだろう。
気持ちも気配りも「ある種の手触り」として敏感に感じ取られる。
席を譲る時にあるのはあたたかな気持ちであることを知っている。
悪気があって席を譲るとか、無理矢理座らせることはまずない。
慮る。そして配る。それが配慮。
配るものは気であり、その気は気持ちを意味するのだと思う。

ところで、有象無象を想う時その難しさにうなる。
次に書く文はどうだろう。

悲しみは見えないけれど、なみだは誰にでも見える。
楽しみは見えないけれど、えがおは誰にでも見える。

なみだを流していれば確かに何かしらの感情の揺れはわかる。
けれど、なみだを見せずに深く悲しんでいる人もいる。
何になみだしているのかを感じ取るには文脈が必要だと思う。
うれし涙とくやし涙は同じ涙ではないのだから。
えがおでも似たことが言えそう。
目が笑っていなくても一応のえがおを作ることは出来る。
それは本心ではないことを物語る。
楽しくない時でも、困った時でもえがおは出せる。

目に見えても目に見えなくてもともあれ仮象なのだと。
だからと言って、心配りが偽善なのではない。
伝える術として行動で示す他ない。
こころがそのまま行ったり来たり出来ても席は空かない。
妊婦に必要なのはあたたかなこころそのものではなくて座る席。
「何ヵ月?大変ね」と言い、席を譲らないのでは配慮がない。
目配せや声がけをせずに席を立ち、遠慮なく座ってもらってもいい。

「見える」が「見せる」ではないことが重要なのだと思う。
そして、この部分がCMを見た時の腑に落ちなさなのだと思う。
この意味において「だれにでも」がひっかかる。
相手に伝わるように仕草すればいい。
周りにいて気づく人はその光景を目にして微笑む。
周りにいて気づかない人は「見えても」心が動かない。
こころや思いは本当にわからない。
同じことを見ても同じ様に捉えるわけではないのだから。

もやもやとした思い。
「いいCM」のはずなのにもやもやするのは何故なのか。
それと向き合い自分と他人とを意識する際の思いが少し変わった。
この思いは思いやりとしてではなく、思いとして伝わるだろうか?

永遠7日。本10日。

題名通りである確証はない。
と、同時に反証も容易ではないはず。

文と認識することがそもそもの間違いかもしれない。
文と認識した時点から意味を読み取ろうとする。
そこに意味がなくても、あるいは、意図がなくても。
記されたモノはそれがそれとしてだけあるのではない。
きっとソコに記された目的を伴っていると思いこんでいる。
そうでなければ道具としての用を足さないとでも言うように。

さて、突拍子もないことでも書くだけなら書けるがテーマ。
題名に書いた短文でなくてもいい。
昨日食べた時計、明日はきっともっとずっと元気。
これでもいい。
意味などあるはずもない。
けれど、少し何か思わせぶりな感じを受ける。
単に言葉遊びで捉えて構わない。
むしろ、それ以上もそれ以下もない。
遊び道具として文字を使ってもいいだろう。
想像力を鍛えるイメージトレーニング・トレーニング。
想像する時にイメージする文脈は文字を追っている。
こう「だから」こう。と、頭の中で動かしている。

題名に戻る。
意味など考えずに書いた。
でも、後付けならば大きく膨らませそうな気がする。
ちょっと気に入っている。
永遠はたぶん7日に収まる位。
そのことを本に書くとしたら10日はかかりそう。
永遠に書きあがらない本が「出来た」。
見ることも触ることも出来ないし、無論、読むことも出来ない。
果たして、この本は「出来た」のだろうか?
理屈で出来てもできなければ出来ていないのか。
理屈で出来ないことがわかればそれは出来ない結果が出来たのか。

永遠を分解してみるのもいい。
永く遠く。
永くは時間軸。遠くは空間軸。
ここに何かしらの違和感を覚える。
永遠は「たどり着かない」を表していると思っている。
ところが、永く遠くだと着きそうに思えてくる。
永い時間遠くまで行くとそこに永遠があった。
これはきっと永遠ではない。
だから、題名に使った。

終りのある永遠について書く。
たぶん7日くらいで収まるだろう。
根拠は曜日である。
日から始まって土で終わるカレンダー。
これは終わっているけど終わらない。
そして、これからも相当永い間7日周期の永遠を刻む。
この時の流れに乗って物事が動く。
その様々を本に納めるのには10日はかかるだろう。
根拠は曖昧にながらある。
1つには、時間。
少なくとも1日の出来事を書くのに2日いる。
1日が終らなければ1日の事を書けないのだから。
それだけなら8日でいい気もする。
ところが日記ではなく本であり見栄えも重要。
2つめは、作業。
装本に装丁、検査もある。
1日装本、2〜8日記述、9日装丁、10日検査。
こんなところだろう。
ここでのポイントは装丁や検査について記載できないこと。
厳密に1日1工程でなくてもいい。
目安の話として。

大体今回の作品の目的はここまでで達成された。
ここまでの作業を思考とは思わない。
ことば遊びでいいと思う。
端々に思考的断片があればいいとは思う。
矛盾や逆説で成り立っているものを楽しむ。
それをどう見つけ出すか。
どう楽しむか。
今回のヒントは歌の中にあった。
きっともっとずっと楽しいヒントが身近にあるだろうと思う。

自信自身と意思意識。

主体性を具えて有るや無しや。
否。
築かれ磨かれて有なるものなり。
さすれば何処に有りしや。
先に外に有りてのち内に見い出されるものなり。

主体性は持って生まれた能力ではない。
成長する際に身につける能力である。
本当だろうか?

乳児が泣くのは意思表示ではないのか?
乳児は生きる為に泣くことで多くを訴える。
空腹や便意や不快感を示す。
泣く以外に全身を使って訴える。
対する大人はそれらの行動から訴えを読み取る。
ここでの両者の関係性はどう成り立っているのか。
意思あるいは意志に基づいているのか?
相手に伝える目的を持っているにせよ無自覚であれば意思ではない。
となれば、乳児の行動は主体性によるものではない。
しかし、主体性に基づかないこれらの行動なしに生きることが出来ない。
ふむ。

2つの情景が浮かぶ。
鳥と馬。
ヒナは口をあけて鳴く。
大きく鳴き大きく口をあけたものが育つ。
親鳥はせっせと餌を運ぶ。
仔馬は自力で立つ。
自力でお乳を飲みに行く。
親馬は飲みやすい様に動かずにいるだけ。
ふむ。

乳児はまだ人ではないと言われるかもしれない。
しかし、人でないとしても生物である。
生物であり動物である。
ヒナの様であってもいずれ人になると期待される。
本能は意志表示に関わるものでないとすればどうか?
では逆に、本能と関わらずになされる行動は意思表示なのか?
単純に理性による行為が意思によるとすれば人生設計など成り立たない。
いや、むしろもっと根本的な事を疑うべきかもしれない。
生きようとすることは本能によるのか否か。

生まれるとは何か?
生まれた時、それは何であり、何を持っているのか。
ヒトに限らない。
生命のみに限らない。
何も「具えず」生まれることはあるのか?

例えば、人が作り出す物の多くは用途がある。
1対1対応の専用道具もあれば1つで多機能な道具もある。
ともあれ、何に使うのかを探れば相手が見つかることの方が多い。
それはたぶん、必要だから作られたことに由来すると思われる。
利便性を求め改良されてきた物もあるだろう。
作られ生みだされたものは客体である。
自発的にあれやこれやをする様に見えてもプログラム制御である。
ふむ。

振り出しに戻る。
人と人とが子作りを経て産んだヒトという乳児は主体性をもった客体なのか?
子作りは現代において理性によって行われ得る行動である。
もっと言えば、無計画に本能の赴くままに行うと危険性が高い。
この危険性も人が人として生きる環境を求めることで直面する。
人とはなんなのか?

と、ここまでが前置き。
要はさっぱり何もわからずにそれなりの年月人間をしてきた。
その上で自分が生きていて感じることを見直してみる。
失敗した時、自信が無くなったと口にする。
どこに有ったのか。
確かに有ったのか。
無くなったのを確かめたのか。
そんなこと気にせずに口にする。
そして、ある時ふと気づく。
「自信は在ると都合がいいから在ることになっているだけ」なのだと。
さらに気づく。
自分の意欲とかいうのも自分にあるのじゃないかもしれない。
もしも、自信にくっついているものだとしたら?
自信がやる気になったり萎えたりして、その影響を受けている。
それを自分の意欲と勘違いしている。

自信自身。
例えば、体調が思わしくない。
そのことを意に介さない人がいる。
こういう人が「自信が有る人」なのかもしれない。
自分の身は自分で信じる。
他人に気遣ってもらってもどうにもならない。
自信に自身を任せられるほど信じている人。

意思意識。
前置き部分のことを考える様な意識。
わからなくても考える。
考えているのか思いつきに肉付けして楽しんでいるだけか。
兎も角、練る作業をする。
悶々とするとわかっていてやめられない。
自信はきまぐれで飼いならせるものではないようだ。

滑稽なほど真っ直ぐな。

正しさについて唐突に疑問を投げかけてみる。
真っ先に前提を提示しておかなければならない。
前提1:目的達成の為に全能力を発揮することは正しい。
前提2:能力を発揮するのは生物に限らない。

どんな例を考えられるだろう?と、自問する。
思い浮かんだのはおかしなことに薬効。
TVCMで聞いた事のあるH2ブロッカー。
いわゆる胃腸薬。
Hはヒスタミンの略。
ヒスタミンは胃酸分泌を促す。
つまり、H2ブロッカーはヒスタミンを抑制して胃酸の分泌を抑える。
よって、胃粘膜を保護修復して胃痛を緩和する。

薬としては痛みを緩和する能力を発揮するので正しい。
では、胃酸からみるとどうか?
迷惑な話だと思う。
けれど、ヒトからするときっと薬効の方が正しい。
何故かと言えば痛みが原因で生活に支障を来しかねないから。
となれば、痛みは正しくないことになる。
少なくとも積極的に痛みを正しいと考える要素は少なそうに思える。
ところが、痛みがないと生活に支障をきたすこともある。
これは、細胞レベルでヒトに警告を発する手段でもあるから。
いわゆる自覚症状。
はたして、痛みは正しいのか?正しくないのか?
痛みを緩和する薬効は正しいの?正しくないのか?

考えたところ「痛み」を「1つの痛み」として大括りにするのが正しくない。
必要な痛みと不必要な痛みがあるということでもない。
ある特定の場面において痛くなって貰っては困る。
それを正しくないと想定した場合に、その痛みを緩和するのは正しい。
重要なのはこの正しさの奥に警告が含まれている事実を忘れがちなこと。
例えば、重要なプレゼンを任されている時。
緊張感が高まり平常時とは違った状態になる。
緊張がストレスとなり胃に負担が。
この負担を単に抑え込むことが正しいのではない気がする。
負担なのだと自覚することが正しいのではないかと感じる。
負担軽減の手段の1つとして胃腸薬の薬効に期待するのは正しい。

正しさをどれが正しいかを正しく考えるのは簡単ではない。
しかし、上記の例から正しくないを考えるのは意外と簡単かもしれない。
見えてくるのは1つではない。
1、緊張する場面では胃が痛くなることを自覚しているが薬を飲まない。
2、胃が痛くなることを見越して薬を事前に飲む。
方や慣れに期待したり飲めない理由がある。
方や備えあれば憂いなしの姿勢。
冒頭の前提に照らすと、これらが正しくない理由がわかるのではいか。
自覚があるのなら痛くならずに済む手段を多く身につけたい。

結局のところ正しさはわからない。
正しい事がいい事でもない気がする。
正しくない事がそんなにわるい事でもない気もする。
胃酸を多く出したのもヒトだし、それに困るのもヒトだし、考えるのもヒト。
考えてもわからないのもヒトだし、対処するのもヒト。
ヒトの有り様がそもそも正しさを多様化している。
正しさは1つでなくていい。
無理がかかると胃が痛くなっちゃうから。

同一空間の異世界。

講演と対談からなる2部形式の講演会に行ってきた。
結果から述べると、知識も気持ちも整理するのに時間がかかった。
それだけ有意義だったと言えるかもしれない。

講演会に出かける機会は滅多にない。
よって、講演会の通例的なあり方もまったく知らない。
講演者の講演を聴衆と一緒に対談ゲストが聴くのかどうかも知らない。
ともあれ、出かけた講演会はゲストも聴衆と一緒に講演を聴いていた。
講演も楽しかったけれど、ゲストの聴き方がさらに興味深かった。
講演の内容は、対談でのテーマとなる知識を大まかに押さえる感じ。
脳をめぐる研究成果と実生活で見られる実践の様なもの。
主に前頭前野について、人間性を司る脳としてみる。
対談のテーマは「一流に学ぶ」というものだった。

講演を聴いて得たことは、脳は使えば使うほど元気になる。
どう使うかに関しては、本を読み、手書きで文字を書き、計算すること。
反復と蓄積によって予測が可能になることが超一流の条件だということ。
キーワードは、一流の条件が予測であり閃きであるとする点。
これで対談テーマと講演とがうまい具合にリンクする。
講演は脳トレで有名な川島隆太教授による。
対談ゲストは現在3冠の将棋棋士羽生善治氏。

超一流の棋士の聴き方を見ながら講演を聴けたことは興奮に余りある。
どこで頷き、どこで笑い、どこで考え、どこで納得するのか。
凡庸と非凡の差は聴き方からわかるかを見ようとしていた。
この試みは失敗だったと思う。
同じ所で笑い、丁寧に頷きながら聴く。
時に顎を撫でながら思い当ることを確認するかの様な仕草。
いかに聴くかではなく、いかに聴いた事を自分のものにするか。
こここそが重要なのだと思い知るのは対談に移ってからだった。

対談は和やかに進む。
印象深く特筆すべき点は、川島氏、羽生氏共に話がスムーズなこと。
淀みなく発言できるのは自信の表れの様に感じた。
例えば、知識の弊害について。
多用される知識は正しいのだと思い込んでしまう。
思い出すのに時間がかかると有効活用出来ない。
知識は理解度の高さ、記憶の質によって使われ方が違ってくる。
忘れた分は「(忘れてしまったのだからそのことも)忘れてしまう」との羽生氏の言葉に非常に納得。

集中力についても面白い。
集中力の深さは実感できないという。
時間感覚が消失して「1時間でも2時間でも集中していた」のだなと気づく。
集中している時は集中している状態しかなく集中していることに気付かない。
このことで集中する恐怖を覚えるという。
集中は気を集める。
反対を考えると、気配りや気遣いや気が利く。
ということは、集中が深いと社会生活に支障が出る能力かもしれない。
訓練によって集中力が高まるのだとして、抜け出す能力も訓練しないといけなくなるのじゃないかな?との羽生氏の話は興味深い。

創造性については独特な考え方をみた。
ジグソーパズルのピースとして捉える。
1個1個の事象をポンポンと投げ出しておく。
時間経過でこことここはつながりがあると「群」が見えてくる。
こんな風に確信が先にある上で「閃き」を確認作業で埋めて行く。

感性の磨き方は唸るしかなかった。
蓄積から抽出されるので、いきなり閃きだけがポンと出るのではない。
不慣れな状況に身を置くことで不慣れな状況に慣れて不測を予測内にする。
これが対談テーマの一流の条件である予測にリンクする。
実践できるかというと難しい。
不慣れな状況に身を置くことに慣れるとはなんとハードルの高いことか。
不慣れな状況に身を置く。
この条件だけでも尻ごみしてしまう。
にもかかわらず、さらにその状況に慣れる程身を置かねばならない。
これではっきりしたことがある。
苦痛に思う人は一流になり辛いだけで、なれないわけではない。
苦痛を克服する高い到達点、見てみたいその先を設定できれば越えられる。
これが情熱というものかもしれないとの言葉に感銘を受けた。

同じ場所で同じ講演を聴いて出てくる言葉。
無論、背景にあるものが違うのだから発想も着眼も違う。
実績として残せる人とそうでない人との違いもある。
けれど、同じ部分も見えた。
言葉や経験のひっかかりが自分の中に多くある人ほど高みに行ける。
誰も見たことのない所をワクワクして見たいと思える人は伸びる。
その為に必要なのは、不測を予測内にする努力。
かけ離れた遠い存在、異世界の住人だと思っていた超一流像が身近になった。
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