独り言小劇場

答えの出ない事柄を徒然に不定期に書き留めてみる場所。

読書考

一読一見解之難。

文字は伝えるためのツールである。
しかし、それ以上の役割をも担いうるものである。
それは、何を伝えるためのツールであるのかによって決まるだろう。
事実や真実を伝えることは文字でできるだろうか。
事実と真実をわけること。
ここに働く何かは何だろうか。
そしてそれは、文字を文字以上にするものと関係するだろうか。

前置きはいつも書くように書いた。
タイトルもいつもとさして変わらないだろう。
何気なしに「いつも」と書いたが読者には違和感があるかもしれない。
一般的に、「いつも」には習慣的なニュアンスを受けるからだろう。
そうでなくても漢字で書けば「何時も」になる。
何時も=常にならそうなるのも頷ける。
けれども、それだけの意味で使われるわけでもないだろう。
普段とか大抵とかある程度の幅や例外を示している。
いつもの場所で、と、いつも笑顔の人では使い方が違う。
こんなことを気にしないことには、文字を読めないのだろうと思う。
つまるところ、違和感の原因は更新の幅が「何時も」の範疇を越えていること。
年を越え五ヶ月ぶりの作品が「いつも」の範疇としてふさわしくはないだろう。
そこが肝なのだと思う。
習慣といつもとの間にある関係性。
能動的な習慣の連続性・継続性の幅はルーズでもかまわないかも知れない。
これはやめない限り幅の範疇にあるから。
しかしながら、受動的な場合そうとは限らない。
少なくとも、記憶に、あるいは、印象に残っている間の幅をもって習慣だろう。
久々に覗いて更新を知った場合。
それは即ち、楽しみに待つ対象としての習慣から脱落している。
提供する側、提供される側の間にある感覚的な距離感は密接ではない。

ところで、タイトルをなんと読んだだろう?
ここにも書き手と読み手の感覚の差、文字の限界があるかもしれない。
イチドク イチケンカイ ノ ナンと読んだだろうか。
そう読んでいただいて結構。
読者には、読んで読みやすいように読む自由がある。
イチドク イッケン カイ ノ ナンと読んで欲しいと思って書いた。
この差は大きいと思う。
一読して一つの見解を持つのは難しい。
一読一見して理解するのは難しい。
どちらも難しいことを言うけれども対象の幅の違いがある。
と、いうようなことを本を読んだり映画を見たりしても注意してはくれない。
パラパラと読んでみて、何分か見てみて、内容から意味を知るしかない。
それがタイトルならそれでいい。
作品内容の重要な部分でこれと同じことが起こったらどうだろう。
そこに読み違いや思い違いが起きて作品の評価も変わってくるだろう。
これらが全て任されているからこそ、作品が作品としてあるのかもしれない。
発表したら作品は自分の手を離れるとは良く聞くフレーズである。
誤解を受けない表現と配慮をして発表していることが前提されるが。
それでもなお評価が分かれるなら、きっとこういう部分のせいなのだと思う。
伝えきれない何か、表現しきれない何か。

何かって何さ!?
ただ答えを聞いてそれでいいというものでもないだろう。
また、答えを用意することに納得しないで出される答えもあるだろう。
そんなわけで、あとがきだけの本と解説付の本とが出てくるのだと思えてくる。
そうだとしてもきっと、そこに答えはないだろう。
この作品の理解のためにこれとこれは必須ですなんてことは、ない。
必須は必須であってもちろん他にも必要になってくる。
それらが「何か」を構成する重要な要素であることはまず間違いないだろう。

具体的な例を一つ提示したい。
映画『ハンナ・アーレント』を少し前に観てきた。
予備知識がなければ後半になってからの部分でしかストーリーを紡げない。
そして、後半で紡いだストーリーを私は理解することはできないだろう。
これが現時点での感想である。
ストーリーを紡ぐのは作品に接した自分の中で行う作業。
この作業をしてこそ、接した作品が作品として認識されるのだと考えている。
この意味において私にとって『ハンナ・アーレント』は簡単ではなかった。
予備知識が貧弱だったことが要因だが、それだけではないと断言できる。
私は日本に生まれ戦争を経験していない。
そして、知る限りにおいて私は日本人である。
作品で語られたことをここで書くことはできる。
それは理解しているからではない。
作品の要素を抜き出すだけだからできるに過ぎない。
理解とはそれだけのものではない。

理解に至らずとも解らないことが解ったのは重要だと思う。
何故理解できないのか。
民族と宗教と歴史が違うゆえにというところか。
これらが違っていても、例えば、愛を育むことはできよう。
しかしながら、思考はそうではない。
人に関わることにおいて、殊に、為されたことにおいては重要である。
民族問題を理解することは誰にとっても困難であろうと思われる。
異文化交流をして風土を肌で感じ、肌に馴染んでもきっとそれは違うこと。
「どこの」が先行し「何を」が追従する。
最後にそれを為した「誰」が行為を固定化する。
これは気をつけてニュースを聞くと気づきやすいかもしれない。
名誉なニュースは誰が先。
事件等はどこが先。
事件は場所の特定で大多数の不安の緩和があろうとは考えられるが。

例えば、海外の事件で昨年のボストンマラソン爆発事件。
一報はボストンマラソンで爆発事件が発生だった。
イスラム過激派の関与するテロかとも報じられた。
日本人被害者の有無も伝えられた。
最終的にチェチェン系の兄弟によるものとなった。
「どこの」とはこういうことを指す。
テロ行為をするのは○○系というような前提から入る。
この事件では映像と情報を元に容疑者を特定したようだ。
アメリカにおいてはこれが円滑に行えるようにシステムを構築した。
重要なのは、アメリカではテロリストをリストアップしていること。
さらに重要なのは、そのことを対外的にも公表していること。
思想的にマークすることで行為と結び付けやすくしている。
一歩踏み込めば、思想的な拠点となる地域を特定している。
これが9.11を教訓に対策を講じた結果だった。
としても、起こりかねない事態だった場合のことはほぼ報せられない。

話を少し戻して、「どこの」「何を」「誰が」である。
5W1Hが浮かぶかもしれない。
けれど、実際には次のフレーズで覚えているのではないか。
いつ、どこで、誰が、何を、どうした。
小学生頃にお楽しみ会等でやった記憶があるかもしれない。
紙にいつ、どこで、誰が、何を、どうしたのかを書いて各々箱に入れる。
各々の箱から1枚ずつ引いて組み合わせるゲーム。
これは4W1Hであり、なぜ?は問題視されない。
動機はどうあれ、ある日どこかで誰かが何かしらの行動をとる。
そこにあるのはまさに日常。
自分と接点のないところでの行動に意味も理由も必要ない。
そういう土台があるとしたらこれは恐ろしいことではないか。
平時の無関心。時事の糾弾心。
誰かがいる所何かが起こる。
いつもは無関心なのにいざ事が起こると原因究明と責任追及。
元々なぜ?のないところには責任もないのではないのか。

人は話題を渇望しているのか。
ならば、それに伴って原因から結果へ至る経過の思考を行うべきだ。
物事を判断するためには物事を正しく認識せねばならない。
認識するためには、知らなければならないし、思考せねばならない。
そこを抜きにして感情的に糾弾するのはヒステリー以外の何物でもない。
悪事が行われた時、行為としての悪事が行為者に属するものかどうか。
行為者に属するとはどういうことか。
拒否もせず、支持もせず行われた行為の結果は裁けるのか。
悪事を行う意思は特定の立場にあれば当然導き出される帰結なのか。
それは、そういうことでなければ裁けないから出た理屈ではないのか。
人を介したにも拘わらず結果しか出なかった悪事。
このような思考が「凡庸な悪」として示されたことは大きい。
映画『ハンナ・アーレント』ではしかし、それよりも重い。
アメリカ人作家で親友のメアリーは最後までハンナの支持者でいた。
それは、民族問題を括弧に入れられたからだったのだろうと思える。
旧学の仲間はみな括弧に入れるべき問題を入れられずにいる。
訴えたいこと、伝えたいことに付随する情報が益であるとは限らない。
けれど、本質を、そして、事実を求めるならば認識し思考すれば見える。
そうでなければ、「凡庸な悪」は身近にあるのであり簡単に堕ちてしまう。
だがしかし、括弧に入れた問題もいつか出さねばならない。
ここで括弧に入れたものを出した後のことを考えることが私にはできない。
上で述べた、紡いだストーリーを理解できないとはこのことである。
さらに、前置きで投げかけた「何か」へのいくつかの答えも述べた。
書き手として記事を書き上げた。
あとは読み手に紡いでもらう他にできることはないように思える。

桜の季節も過ぎにけり。

5月も中旬ともなれば桜の色も変わる。
多くの場合、桜を薄紅色として思い浮かべるのではないだろうか。
言うまでもなく、それは花の色であり、また、一重に違いない。
身近であることが我々に与える影響力の強さを感じずにいられない。
ともあれ、その色を過ぎれば葉の色になる。
花の容姿が八重でも一重でも薄紅でも淡紅でも黄でも黒でも紫でも白でも。

小川和祐著『桜と日本人』(新潮選書)を読み終えて少し間が空いた。
桜を愛でることの難しさを学ぶ本だった。
書いてあるのは、愛でることの難しさではない。
読み終えた結果として抱いた率直な感想。
「愛でる」ということは、何も桜に限らず難しいだろう。
「好く」とはやはり違う。
より一層深く思い、慕い、そして、行動することが「愛でる」ではないか。
身近に置くために植えることも一つだろう。
讃えるために詠むこともまた一つだろう。
伝えるために、物語を編むことも一つだろう。
残すために撮ることだって一つだろう。

私が、「桜は好き?」と、問われれば、「はい」と答える。
何故かと問われれば「散る」からである。
しかし、著者は「散華」を忌み嫌っている。
しかしながらそれは、「散る」ことを忌避しているのではない。
思想としての「散華」を背負わされた桜と、思想を忌避している。
軍国の花。
思想により穢された桜をその呪縛から解放する。
そのことに苦心する姿が見える。
だが、私にとって荷が重い話だった。
作中に挙げられる桜を愛さなかった作家の話も私にはいまいち。
その作家たち(芥川、太宰、三島)は桜を愛していないように読める。
これに対し桜を愛した作家たちの話はなるほど愛を感じる。
ところが、このことがかえって私には素直に受け止められない。
負を覆すための正の過剰な投入。
バランスが保てているとは思えない。
愛さなかった者が愛さなかったのは何故なのか。
時代が愛すことを強制した反動だったか、影響の残った時代からか。
愛すに足る対象としての魅力を奪われていたからか。
遥か昔の愛する物がいくつもあった中から選ばれ愛された時代。
桜をめぐり通底する生と死の喜びと憂い。
平安時代に芥川、太宰、三島がいれば愛したかどうかはわからない。
書くことでしか残せなかったこと。
書かなかったことで残したことはなかっただろうか。

私にとって桜は散る花である。
そこに「散華」の思想はない。
たしかに、散る美しさゆえに桜が好きだけれど。
そう。
きっと、私は桜に特別の思いを抱かない。
桜は散る花だから好き。
それ以上のことはない。
何かを「愛でる」には包容力が必要なのだろう。
一切合財を受け入れることが出来なければ「愛」はないかもしれない。
いい部分だけを取りざたしても何かスッキリしない。
負に映ろうことも背負える花であった桜は、それゆえ愛された。
そう思える。

今年も桜を写真に撮った。
去年と同じ場所だが、去年に比べ色が薄いようだった。
先に述べたとおり、散るから桜が好きなのだ。
斬首を思わせる様な落花は不気味で好きになれない。
好きであるにもかかわらず、今年は散った姿を撮らなかった。
本に影響されたのではない。
単純に色が薄いと散った姿があまり美しくない。
その代わり、咲いている姿に見所がある。
中心部分のほんの僅かな色付きに秘められた美しさ。
全体の薄紅を作るよりも、点々と色付いた群れの重なり。

昔の桜が今はだいぶ減ってしまったそうだ。
都で愛された桜を身近で見ることは出来ない。
けれども、全て染井吉野になったわけではない。
探せば枝垂れも八重もある。
ただただ美しい。
難しく考えずに春に桜を撮る。
春だから桜。
夏だから向日葵。
秋だから紅葉。
冬だから雪。
難しくなった今の時代に季節を代表する花としての桜。

大勢が見ない静かな桜を撮るのが、私の桜の愛で方。
ソメイヨシノ
ヤエザクラ

本を借り、読み、返す。その一連。

久々に読書について書く。
記事を書くのも久々で、何を書こうか考え付かなかった。
きっかけは、自分から見つけるより外から来る。
それをどう捉えるかの差なのかもしれない。
きっかけがあっても結局、書くも書かないも自分次第だから。

伊集院静著『大人の流儀3 別れる力』を読んだ。
ただ読んだのではなく、お借りして読んだ。
本は本。読書は読書として済ませられる人は、読書好きではないだろう。
たとえ中古本であっても自分で選んで買った本は特別である。
貸すことに何も感じないことなどないにちがいない。
借りた本を返すことに何も感じないことも、またあるはずはない。
本の貸し借りとは単に物理的な移動をのみ示すのではない。
想いと思いの移動だからこそ重い。
この本には強く再確認させられた。

借りるに至るまでの経緯を書いておく。
貸主が、別れ、とりわけ、死別に関心を寄せている人だった。
新聞での煽り文(各年代読後評)付の広告を見て興味を持ち購入。
読後評はあまり芳しくなく、期待外れとのこと。
感想を他のスタッフに話しそのスタッフが借り読了。
両者読了後での感想もあまり芳しくない様子。
そして、私の手元に渡ってきた。
この時点で未読の私にとって相当のバイアスがかかっている。

この本を読んで得たのは、私の感想と先の人達の感想への考察だった。
著者が伊集院静であり、題名が『別れる力』である。
無頼派の作家が書く別れがどういうものになるのかのイメージ。
イメージ出来ないこともないだろうと思うけれど、そうでもなかったようだ。
まずもって、バイアスがかかっていることを考慮していない感想だと気づく。
別れ=死別のバイアスから読む本ではなかった。
とは言え、仕方のないことかもしれない。
広告の煽り文(各年代読後評)がそうさせたのだろう。
そのことを悪いことだとは言わない。
本もマーケティングが必要な「商品」である。
著者もシリーズの1作として書いていることを作中から読み取れる。
作家が読まれるために本を書くのは当然。
専門書は研究の一助になることを目的に書きそれゆえに値が張る。
本と書物の差を同一視して語ることはナンセンス。

私自身の読後評としては、結果的に芳しくないという意味で一致。
確かに全体を読み通すと「別れ」の種類がいくつもあり楽しい。
が、しかし、主題からずれた話もまた多い。
この本の題名に『別れる力』が最善だったとは思えない。
作中で著者が匂わせるとおり、書いた文と書けた文と書かされた文がある。
著者自身の「別れ」に関することより、著者が接した周りのエピソードがいい。
そのことで作家という職業の特殊性が見えた。
名のある作家でしか出来ないことは、多くの人に読ませることかもしれない。
著者自身が別れに対し深い思い入れがないのではないと感じた。
無頼派である以上仕方のない書き方もあろう。

p.15 私たちは経験したことで何かを知る。何かとは、生きることである。経験と書いたが、それは時間と言ってもいい。生きる時間は常にそういうものとともに歩んでいく。

p.35 初春に逢いに行く人がいなくなった。
人の死はこれが切ない。死はただ逢えぬだけのことなのだが、二度と逢えぬことが真実である。真実は残酷である。

p.52〜p.56 「あの人は私の中に生きている」

p.59 奇妙なもので、あの人を見ると安堵すると感じる人は不思議と切ないことや苦しいことを経験している人が多い。

私にとっては、これらの部分が印象に残った。
本を1冊読み終えたなら、読む前と読んだ後で何かしらの変化があるものだ。
この本でも変化はあった。
残念ながら私自身が大きく変わる程の影響力はなかったけれど。
誰が何を書くのかは大事だし、無頼派作家は無頼派作家として書くしかない。
歳は取り戻せるものでもなく、死や別れの経験も絶対値はない。
男くさい古い男はそれ故無頼派を通せるのであって、情緒は愛するものであり語るものではない。
時期的なものもある。
場所的なものもある。
この時勢において仙台の作家が書く「別れ」に特別な意味がないとは思わないだろう。
題名に寄せられるだろう読者の期待値に対して十分な内容ではなかった。

さりとても、面白く感じた部分もある。
まさに上に上げた印象に残った部分の関連のこと。
逢いに行く人の喪失は実存の消失であるが、喪失をもって代替物(遺品や思い出)を保護するようになり、自分の記憶の限界までの延命をすることもある。
死とは何かを考えるとき、実存の消失ではなく、残り香の消失をもって死であると考えることも可能。
残り香は、忘れてしまうことや自らも死んでしまうことによって消失するのかもしれない。
この様に考えると、別れの辛さがなにゆえか、別れる力は「何への」力なのかを考えさせられる。

予想は想像の内側?外側?

カテゴリを読書考とした。
これは正確な選択でない。
映画鑑賞レビューを書こうとするから。
しかし、どうだろう?
題名を知っている。
微々たるものだが少し原作の知識を持っている。
事前に何も情報を得ずに見た映画はかつて1度もない。
この意味において、映画は私にとって予想とのギャップである。
外れても楽しめる。
当たっても楽しめる。
ただ、予想をつける作品との出会いが少ない。
これを主な理由として映画の鑑賞法がわからない。
つまるところ鑑賞のセンスがないのだと思う。

ともあれ、作品を見た。
事前に知っているのは、題名と原作の出だしとあらすじ。
歴史的事実としてチェコ民主化運動の際用いられたヘイ・ジュード。
他の情報(知識)はさほどながら、題名に期待が大きく膨らんだ。
『存在の耐えられない軽さ』
これだけで見てみたいと思った。
原作の出だしはパンチが効いている。
ニーチェの永劫回帰という考え方はニーチェ以外の哲学者を困惑させた。
これで小説が始まるとは思えず、とても読み進められない自信がある。
だが、幸か不幸か原作を読んだことがない。
DVDで映画を見ただけ。
しかも、拝借した。
作品の批評などできない。
どこまでも、予想とのギャップを語る。

予想段階で当然ながら「存在」の意味するところが気になった。
『存在の耐えられない軽さ』が題名である。
耐えられないほど軽い存在は「何か?」が重要だった。
事前に恋愛物であることを知っていてそう思った。
愛の価値、相手の価値、自分のあり方としての価値...。
価値はきっと「重み」と言い換えられそれが「存在」だろう。
その程度にしか予想できなかった。
薄っぺらい予想である。

鑑賞後に思うところは複雑である。
主人公トマシュは脳外科医。
トマシュの旧知の画家のサビーナ。
手術の出張先で知り合ったウェイトレスのテレーザ。

箇条書きでとにかく書いてみる。
・帽子に込められたハットとハート。
・不意打ちだったマン・レイとリー・ミラー。
・ヘイ・ジュードは、なるほど面白い取り入れ方。
・切り取る生は横顔に。美は全体を含む部分に。
・土地と国家(祖国)、居場所と生き(行き)場所。
・言う(言わない)、感じる(感じない)、伝える(伝わる)。
・個と他、平等・当分(分散・分担)と独占、自由
・理解とはなんぞや。

・1人の人間のアイデンティティがその人そのものに無い可能性。
画家サビーナは帽子を大切にしている。
祖父の祖父のまた祖父の…大昔からある帽子。
その帽子を愛している自分を愛するサビーナの核心。
帽子(ハット)と永劫回帰の心(ハート)にみた。

・至極個人的嗅覚ながら、モノクロ写真における美の挑発。
マン・レイとリー・ミラーの作品によって、美の再発見を意識づける。
組んだむき出しの女性の脚。
美脚の美は形であり、体は容であり、脚という型である。
誰のものであってもかまわないが、誰かにしかないか、誰にもない。
美は形としてあり永遠の元型である。

・ヘイ・ジュードは、作中、ソ連の侵攻の場面で流れる。
歴史的事実と重ね合わせているのだろう。
が、その歴史的事実の全体像を詳しく知らなかった。
マルタ版のジュードは女性であるとのこと。
ヘイ・ジュードのフルコーラスが流れるのではない。
この場面ではテレーザのことを歌っているのか。
テレーザが何度もシャッターを切っている。
切り出された多くが横顔であり、また、犠牲者の姿である。
何かをしなければ。
この想いでシャッターを切り、トマシュへの想いも見つめる。
応援ソングとしての演出効果は大きい。

・写真力ではなく、カメラ力。
レンズ越しの世界はきっと、2色の濃淡で表現しきれる裏と表。
人が横を向いた時、人はその視線の先に意識的に集中する。
事はとっさに(ふいに)横を向いた時に起こるのかもしれない。
・全体像も全体からすると部分であり、全体における部分は濃縮である。
みんな同じであることが普通だから美しくもある。
総体、まとまりとしての構成美。
クローズアップして成形美を再発見するのも美。
個体に宿る構成美としてのサボテン。
個体に宿る成形美としての女体。
存在するのは素材であり、そこにある美は1つではない。

と、美に関して、今読んでいる『「かたち」の哲学』から解釈してみる。

国家や思想や感情は色々書いても仕方ない。
ただし、居場所・生き場所は重要である。
人が存在するということは、どこかに必ず間借りしなければならない。
物質としてあるのだから、居場所の確保はやむを得ない。
生き場所では生活がある。
明確にすることがありそれが生活に結びついていれば充分。
多くを考える必要もなく生きるための行動を続ける。
自然の一部に還るまで自然の中に返る。
やるべきことがあるのは他のことからは自由なのだ。

ところで、ここまで「存在」の素材は見えた。
では、軽さとは何だったのか。
1つの結論として、「存在」への軽さではなく「存在」からの身軽さ。
ある1つにとっての1存在の重みは個々に異なる。
例えば、大きな愛と深い愛とを比べることはできない。
また、小さく浅い愛を否定することもできない。
こちらの愛は善意として顕れ得るものかもしれないのだから。

1冊の本。-Heart bits-

1冊本を読み終えたならそれは素晴らしい事だと思う。
その素晴らしさの中に何かしら得たものを見い出せたらもっと素晴らしい。
得たものが自分にとってあまりプラスでないことであっても素晴らしい。
難解さが原因となって読み終えられない本がある。「自分の無学」を知る。
すらすら読み終えて「はて?何について書いてあったか」と、いうことも。
どちらも似た様なことなのかもしれないとこの頃感じる。
読みこなせないのは知識不足を思い知らされているのではないか。
すらすら読むのは注意を払うべきところを読みこめていないのではないか。
本の良し悪しは、ともすれば自分自身の接し方に依るのではないかと。


『だれでもない庭 エンデが遺した物語集』岩波書店
p.342 鏡にうつる鏡には何がうつっているのか?

読者が二人いて同じ本を読む。それでも二人はおなじものを読まない。
二人のどちらもが読書の中へ自分自身を持ちこむ。
考えや連想・経験・想像力・人間としてのレベルなどである。
つまりこう言ってもいいだろう。
本とは一枚の鏡であり読者をうつす鏡だと。
むろんその逆もある。
ひとりの読者が二冊の異なる本を読む。するとその二冊はさほど異ならない。
つまりこう言ってもいい。
読者とは一枚の鏡でありその時どきの本をうつす鏡だと。
読者と読まれている本のあいだでおきることは、いったいどこでおきるのか?
ただ本の中だけではない。本は白い紙の上の黒インクの記号でできている。
読者がいなければならない。ただ読者の中だけでもない。
本がなければ読むというプロセスそのものが成り立たない。
それではいったい、なにがそこでおきるのだろうか?
これら黒い記号を読むことで、わたしたちのなかに喜びや悲しみ、好感や嫌悪、興味や倦怠感、笑いや感涙がひきおこされるのは?


非常に興味深く、それゆえ、印象深く残っている文章。
読者たる鏡が本たる鏡と対峙した際に映し出されるものを問う。
これは、距離感の問題であると捉えた。
なぜなら、2枚の鏡が密着している時、そこには何も映らないから。
いや、映っているかもしれないけれど確認出来ないとした方が正確か。
イメージしてもらえば簡単な話だと理解してもらえるだろう。
合わせ鏡である。
自分の後ろを確認するのに合わせ鏡を使う。
後ろ姿を確認すると同時に、鏡の中に小さく映り込む自身の姿も見る。
これは、鏡と鏡との間に自身をおいて初めて空間を想う参考になる。

では、次の場合はどうだろう?
片方がマジックミラーだとしたら。
鏡に映るものを片方からは確認出来る。
そこに映る鏡の中の世界には何が映し出されるのか。
密着して鏡が鏡のみを映す時、そこに合わせ鏡で見た空間はあるのか?
他からの影響を受けない絶対安定状態である様に思われる。
しかしながら、この試みは挫折するだろう。
何故か?
マジックミラーを覗き込むその時々によって映るものが変わるから。
と言うのも本がこちらを覗き込む事は有り得ない。
それゆえ、覗き込むのは読者である鏡である事が確定している。
本はあくまで読まれる対象物であり続け、それを読む読者が一定でないのだ。

再読に耐える本。再読せずにいられない本。再読でも敵わない本。
どれも違う事を言っているのではないのだと思う。
要は読者が本に対して必ずしも優位ではないということ。
本の持つ魅力に読者が引き込まれている。
その時どきの自分を本に映して見せて姿を確認する。
以前見えなかったものが映っていれば素晴らしい。
経験や考えや身に付いた何かしらが増えているのだろうから。

この様に見てくるとエンデの問いへの答えは自ずと見えてくる気がする。
本があるだけでもなく、読者がいるだけでもない。
出合いが必須であること。
読書という行動の中で鏡に書きとめられた記号を読み、読んだことを鏡である本に映して自身を知る。
本に記された記号が記号以上の何物かである事を知っている。
開いた本と読む姿勢の距離の間の中で世界が展開する。
その影響が読者の内側ー覗き込む側の内側ーに生じる。
そこで溢れた涙が本に影響を与えることもあるだろう。
ところが、その影響の跡が必ずしも影響を及ぼした場所に残るとは限らない。
こらえ切れなくなって零れた涙は他のページに跡を残すかもしれない。
その跡が再読の際に以前の自身を想起させる。
同じページに跡を重ねるなら自分の変わらない部分を知り、跡をなぞって通り過ぎて懐かしさを覚えるなら過ぎ去った年月を想えばいい。

1冊の本を読む時1つ以上の事を考えられればと思う。
できれば、わからない事がたくさん見つかる本と出合えればいい。
わからないことを解消するために新たな本との出合いが期待できるから。
また読んでみようと感じた本。
手放したくないと思う本と出合えることは幸運な事だと信じる。

一日一生懸命。

天台宗大阿闍梨である酒井雄哉さんの著書を読んだ。

キーワードがいくつかある。
一日一生。
一生懸命。
くるっくる。くるっくる。

とても読みやすく、また、独特の力の抜け方を感じた。
本の内容を最もよく表しているのが、「くるっくる。くるっくる」だと思う。

千日回峰行を2度満行した方。
1日の行を終える時、履いた草鞋がくたびれている。
それに自身を重ね合わせてたどり着いたのが一日一生の考え方。
次の日もまた山を巡るけれど、その時は新たな草鞋で巡る。
今日を生き、そして、次の日を生きる時には新たな自分でスタート。
リフレッシュ。
再び新しく。
その日はその日でしかない。

一日が一生なのだとする考え方に基づいての一生懸命。
一日生きる事に命懸け。
それ程真剣に取り組む事があるか?と、問いかけられる様だった。

答えを出してしまう事は、それは即ち終了を意味する。
答えが出なければ、決めてしまわなければ、ず〜っと考えている。
それでいい。
答えを見せあうと、違った場合どっちが正しいのかという事になる。
同じだったら同じだねで終わってしまう。
答えを教えてもらい鵜呑みにしてわかった風にしていても、「何でそれが答えなの?」と訊かれて答えられなければ、答えがわかっていない。

食べて動いて眠って。
それの繰り返し。
くるっくる。くるっくる。
同じ様に訪れると思っている明日が来る前に、まず、今日を一生懸命。
悔いなくやりきり、もし明日が訪れなくてもその日までが一生と思える様に。

一日一生懸命。
一日を生きるのに命懸けも生き方の一つ。
こんな事を考えさせられる著書との出合いでした。

読むことは想作すること。

読む。
この行為を根底から見つめ直してみたい。

まず「書かれた書物があって」読者はそれを読む。
書物が先にあり、読むのは受動的な行為だという先入観に疑問を投げかける。
たしかに、読むべきものがなければ読むことはできない。
そしてさらに、著者がこう読んでくださいと但し書きやガイドを付けている場合にはそれに従った方が読みやすい場合が多い。

一方、小説の様に読者に読み方を大きく委ねられているものは違ってくる。
著者が設定した世界観、登場人物の大まかな情報、物語の展開があるのみ。
小説を読んでいる時を思い出してみていただきたい。
登場人物の容貌や声、好みの服装、あるいは、行動の予測等は読者が文章を読みながら形作っていくものではないだろうか?

これを「想作」と呼ぶことにする。
想像して作り出す=想作である。
イメージの形成に必要な情報を著者に与えられ、読者がその物語を展開させていくという能動的な作業が読むことと言えそうである。

詳細に記述された物ほどイメージを描きやすいけれど、それを逆に捉えれば読者のイメージの幅を狭め、著者のイメージに縛られることとも考えられる。
読み進めて行くうちに作中に描かれている行動と、既に想作されたキャラクターの行動にズレが生じてしまい、これはちょっと違うなぁ…。と、いう経験がある。
著者の持つイメージと読者が持つイメージが一致しないのは、それだけ想作するのに自由度が高い作品なのだと考えられる。

文字のみから脳内に映像化・音声化して動かす想作は非常に高度な技術だと思う。読書量の多さがその技術を上達させてくれるのだと思うけれど、ごく自然に身についている様にも思えるから不思議。

文字のみでない場合も考えてみる。
漫画。
登場するキャラクターは既に映像化されている。
どんな容姿なのか。
どういう仕草をしながら喋るのか。
どの様な服装でいるのか。
これらは与えられていて想作の範囲を大幅に狭めている。

声を想作することはできる。
これがアニメやドラマや映画の作品として完成した時、想作した声や役者がイメージと異なる場合に感じる非常な違和感の元になるのだろうと思う。
この現象はしょうがないと言えばしょうがないのかもしれない。
原作を読む時点で自身の想作と著者のイメージが合致しているとは限らない。
アニメやドラマ等は、脚本家が想作した物に則って役者や声優が選ばれて作られる作品を観ることになるのだから。


以上に書いて来た様な捉え方をすると、読むという行為は同時に多くの物を作り出し動かす能動的で個人的な愉しみなのだと思える。

白と黒とをめぐって。

原研哉著『白』を読んでからずいぶんと経った。
とても濃い一冊で、考える要素がふんだんに盛り込まれていた。
そこから得たきっかけを今、やっと文章に書けそうな気配を感じる。
自分の中で考えの連環が1つ形成された様に思えているから。

著者は「白は色ではない感受性である」としている。
これは本の帯にも書いてあることで、本の主題でもある。
本文中に書いてある様々な事柄が、そして、読後感もまたこの主張に異論を感じないものだった。

全てを引いてそこにあるのが白である。と、著者は記している。
それ故、白は存在した瞬間から極々微量の汚れを持って「白」ではない。
それでもなお、白は生をも含むものだとしている。
栄養素を含んだ母乳も、生命を包む卵の殻も白色で純白ではない。
含みを持った白。
それによって物質的な質感が感じられる。
「感じられる」ことこそ「白は感受性である」ということだと理解した。

読みながらに感じた事は、物質として色を捉える時、無色透明はどの様に捉えているのか?との疑問だった。
例えば、空気。
空気に色はない。しかしながら、極小な原子レベルにおいては物質として存在し、それが生命活動に必要な酸素を供給する。
この時点において、白は透明をも内包するのだと了解できた。
白の濃度の違い。
ガラスや水族館の水槽を思い浮かべるといいかもしれない。
透明でも分厚くなるとそれは光の屈折によって色を持っていることに気づく。
これが物質としてある原子レベルから色を感じられるかどうかだと思う。

かくして白について自分なりにわかったつもりになれた。
ほぼ同時にある意味当然の反応として、単純な疑問を抱いた。
黒は?
黒は何だろう?
白はすべてを引いて白。
ならば、黒はきっとすべてを足して黒なのだろうと思った。

沸きだす疑問と関連するだろう事柄。
白と黒とどちらが存在しやすいのだろう?
白が生を含むのなら黒は死を含むのだろうか?
物質として捉えた時、「純」を求める難易度はどちらが高いだろう?




TVのことが頭に浮かんだ。
色の再現度を高めるために黒を極めるとする宣伝を見たことを思い出す。
より濃度の高い、つまりは、すべてを足して黒にする試み。
純度を上げるというのは難しいことなのだと思う。
純金と言われる物のその証明の刻印は99.99%だから。
少しの不純物があることによって、存在できるのかもしれない。

純黒という状態は光のない状態。
光がなければその形状の差異は意味をなさない。
それが椅子であろうと机であろうと関係ない。
見て認識できないのだから、あらゆる物が同じ形でも構わない。
それが切れるものであれば、痛覚で危険であると知る。
その時流れる血の色もわからないけれど、温かみと鉄分の味で血を知る。

死は白と黒両者が引き受けていると考えが至った。
瞳孔が散大すれば光の反射をしない。
光を受け付けなくなれば、白を感じない黒に満ちる。
肉体が朽ちて骨になって残るその色は白い。


色はそれぞれに微妙な変化があるからその色を持っている。
その違いを感じることでそれがその色をしていることの意味に通じて行く。
このことに気づかされたのは、やはり「白は感受性」というメッセージ。
一歩踏み込んで、色は総じて「現象」ではないかと思う様になった。
デジタルなフルカラーだと1677万色を再現できる。
だが、その全てに名前が付いているわけではない。
発見してハッと。で参考にした日本の伝統色は、生活に身近なものから色に名前をつけていた。
1677万色再現できたとして、その1色1色の違いを人間は知覚できるのか。
名前のない色は記号でしか表記されない。
それを思う時、名前のある色は名前を付けるにふさわしい程人間に近かったのではないかと想像する。

白と黒とをめぐって色々な事を考えた。
きっかけとなったこの本に出合えた事は有意義だった。
そして、課題が残された。
白と黒の真ん中の色は灰色とされている。
その色はきっと人の数ほど違った灰色なんだろうけれど、どうなんだろうか?

灰は生を終え死を迎えた後の姿。
色の持つ感受性を刺激する力に驚かされ、深く考えさせられる1冊だった。

政治と軍事と空想と現実。

航空自衛隊のTOPである所の航空幕僚長(空幕長と略す)が記した論文が波紋を呼んでいる。

頭をよぎったのは3点。
・小説「亡国のイージス」
・三島由紀夫の檄文を掲げての自決
・ペンは剣よりも強し。

小説はもちろんフィクションであり、実際の出来事ではない。それでも真っ先に頭をよぎったのは、作中論文『亡国の楯』という作品中のキーポイントだった。
ここで空想と現実が交錯した。
共通点は、軍事研究に関する論文であること。
ただそれだけだけれど。

続いて、自決事件の方との関連は思想を言動と共に行動で示した点。
今回の空幕長の論文は、無血クーデターの様なものだったのでは?と感じた。
論文により言論を、証人喚問による発言で行動を。
軍事が政治の1つの部門的に扱われることは、文民統制(シビリアンコントロール)によって武官の暴走を許さないという構造からわかる。
戦争は、国権の発動として憲法に示されている。それを放棄している憲法下においては軍政はあり得ないことを明確に示している。

ところで、三島由紀夫の自決は文字通り思想の影響力を命を以て明らかにしようとした。この点、亡国のイージスの作中論文の筆者は「裏の力」によって命を落としている。能動的か受動的かは異なるものの、命を賭している点で共通する。

第三点、ペンは剣よりも強し。
これに疑念を抱かせたことも事件と言っても過言ではないと思う。
武官の執るペンは、ペンなのか剣なのか。
空想の論文の題名は『亡国の楯』であり、三島が組織したのは<楯の会>だった。
どちらも守る楯を用いながら、内容は痛烈な批判の刃を持つ剣。
今回の空幕長の論文は上段に構えた剣の様に感じられた。
日本の歴史認識そのものを、戦時中の軍政による体制と現在の体制との間にある違和感、欺瞞に彩られた曖昧な存在としての自衛隊のあるべき姿は何か。
政治に軍事が斬り込みを入れ、覆い隠そう回避しようとするところにある本質を露呈させるべく振り下ろされた剣になったのかもしれない。


以上に書いた事はもちろん感想に過ぎない。
何らの到達点も見出す事はできないのだけれど1つ願うことがある。
不可解な最期を与えられる様な、ペンよりも強い剣の力が働きませんように。
ペンが剣より強いのは、体を傷つける剣より心への影響が大きいからなのだから。

読まずに読めていた本。

秋が深まっている。
紅葉も山から街中へ。
高い山には冠雪が見られたとのこと。

さて、秋と言えば何の秋を思い浮かべるだろうか?
芸術?
食欲?
運動?
どれをとっても意欲的に出来るのは、やはり秋ゆえだろう。
自身の経験から、読書のはかどり具合がすこぶる良好なのが秋。
そんなわけで今回は、読書に関する話題。


知識の獲得のために有効な手段として、新聞やTV、インターネット等がある。
しかしながら、本を読むことでしか得られない知識も今なお残っている様に思う。
そして、その体験自体がさらなる読書の楽しみへ続いているとも。

1冊の本を読むのに、もう1冊本が必要な本というものがある。
いわゆる専門書の類。
いちいち専門用語が持つ一般の意味と異なる意味を解説書で調べる。
また、洋書を読む場合にも辞典が欠かせない。
以上の様な場合は、知識の補完の為に、言いかえれば自分の力不足によって2冊目が必要と言える。
これに対して、いわゆる「リンク」式の場合もある。
「リンク」式というのは、インターネットで関連する情報にクリックすることでアクセスできる機能であるところの、リンクに由来する。
1つの情報から次の情報へ、さらに次の情報へと広がりがあるということは、そこに自分の興味が重なれば知識の幅が広がる。


ある文庫本を読んでいるとする。
すると、そのストーリー展開が別の本に似ているということがある。
だが、別段それは問題にならない。
それよりもむしろ、キーワードになる言葉であったり、テーマが似ていると感じる本に対してワクワクが強くなる。
作家毎に考え方がそこで異なってくる。
ポジティブな捉え方の場合もあるし、ネガティブな捉え方の場合もある。
その違いがそのまま、違う人間の同じ事柄への反応だと受け止められる。

「興味の発端」が何かを特定するのは実に難しいことだと感じる。
1冊の本から様々なことを吸収していると思っているから。
それだけ作家が1冊の本を構成する上で必要な文章・情報だと判断して作品を生みだしている苦労の表れでもあるのだろうけれど。

例えば、テーマになっている実在する特殊な病気・症状に興味を持てば、そのフィクションではない事例等についても興味がわく。
すると、「リンク」式で専門書を読むことになり解説書も読む。
そうやって基盤ができると、次にそれをテーマにした文庫本等を読んでみたくなる。

こういった循環を繰り返すうちに、以前読んだ本でテーマだったものが、別の作家の展開上のアクセントとして作中に出てくる場合もある。
その本は、過去に得た知識からすんなりと了解して滞りなく読むことができるようになっている。
そういう読書の機会に巡り合った時、元々の興味を抱いた本をもう1度読み返すと初回時と違った印象を受ける。
当然、時間経過があり他の本を読んで得た知識が蓄積された分、初回時の新鮮さや謎に接触するドキドキ感が無くなっている。
その分、冷静に深く読み込める気がしている。


どの本をいつ読むのがいいのか?
これは、答えの出しようがないだろう。
どの年齢で何に興味を持つか、そもそも、読書を始める年齢も様々なのだ。
知的探究心が強ければ歳若くしても難解な本を理解する努力を惜しまないだろう。


そんなわけで(どんなわけで?)、今回のタイトル「読まずに読めていた本」というのは、作品を構成する要素について、読書を重ねるに従って事前に知識として身についていれば、その個別の要素の捉え方に感心したり、ちょっと違うんだよなぁ…と思ってみたりできる。
要するに、本はその本を読まなければ読んだことにはならないにしても、構成する部分部分については、その本のみから楽しさを感じているのではないということ。

ともあれ、読書は大きなきっかけを与えてくれる。
その読書欲を高めてくれる秋という季節が好きだ。
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