震災当日は金曜日だった。
今年の3.11は火曜日になった。
このことからも3年分時間が動いたのだと確認できる。
時間が動いた。
その変動は、経たのか、経ったのか、過ぎたのか。
いや、そもそも時間がはたして本当に動いたのか。
現在をもって終わったこととして済まされることがどれほどあるのか。
カレンダーや時計では追いきれない時間がある。
そういう世界に生きている人が少なからずいる。
これはどう捉えればいいのだろう。

時間の流れに意味が在るや否や。
必要十分な時間というのは何者にも定めはないだろう。
そして、何物にも定められないだろう。
懐かしい思い出になるのもそうだし、熟成期間にしてもそう。
「まぁ、頃合いを見て『そういうことにしよう』」とするだけだろう。
例えば、一途であることは執念深いことの言い換えかもしれない。
ここに見られるのは、ある時点を境に囚われた姿なのかもしれない。
仮に、経過がなければ得られないことがあったとする。
しかし、その結果として得られることが必ずしも必要で有るや否や。
もしかすると、ここにも言い換えが潜んでいるのではないか。

救いということ。
状況ということ。
平静を取り戻しつつある、あるいは、取り戻すために必要なこと。
渦中にあってはそれをそれとして受け止めることは難しい。
していたとすればその時点でその状況から救われているのだろう。
するとは作為である。
意思力の行使である。
慣性や惰性の結果生じたのなら、それは「していた」のではない。
「できていた」のだろう。あるいは、「やれていた」のかもしれない。
意思が介在せず事が済むこと。
このことを否定するつもりはない。
結果、誰にも危害が及ばなければ問題にならないのだろう。
このように「行われるべく」具わった能力の発現だと捉えることもできる。
生物が生を全うするための能力。
製物が付与された目的を全うするための機能。
作られた物は何であれ何かに似せて作られる。
似せたはずのもの以上のものを目指して。
きっとそれは、いいことだろう。
発展はそうでなければ起こり得ないかもしれないから。

進むこと止めること。
どちらもしなくなるのが一番いけないのだろう。
しなくなるのと、できなくなるのとの大きな差。
古語に曰。
不為者與不能者之形何以異?
しないのと、できないのとの違いは何か。
挾太山以超北海、語人曰『我不能』、是誠不能也。
大山を抱えて北海を越えることはできないと語る時、これは事実できないのだ。
為長者折枝。語人曰『我不能』、是不為也、非不能也。
年長者にお辞儀できないと語る時、これはしないのだ。できないのではない。
ここにもきっと言い換えがあるのだろう。

不為也、非不能也。
為さざるなり、能わざるに非ざるなり。
この言葉は名言として知られるようだ。
できないのではない、しないのだ。
つまり、やっていないだけとの意味合いで。
やればできるかもしれないのだし、やってごらんともとれる。
それでいいのだろう。平時は。
戒めにも鼓舞にもある。

しなくなるのと、できなくなるとの差。
しなくなるのは関心がなくなる。
本当にもう無関心になっていいのだろうか。
できなくなるのは何だろう?
事実、できないことが生じている。
「できない=不能」であるとすれば、それだけのことがあったのだ。
やる、やらないの問題ではないことが。
何かが壊れたり、無くなったりすることが。
直したり、補充したり、取り換えたりできないことが。
元に戻せると思って疑わなかったことが、そうではないと気づくことが。
やめることもできたはずのことをやめない。
不便さの中でも生きられたのに、また便利さを取り戻す活動をやめない。
「できるのにしない」には「やらなくてもいいのにしてる」を含んではいまいか。

時の流れに人の思いが乗ること。
人の想いは思いよりも先行する。
思いは重く、想いよりも日常に根付いている。
そこに見て取れる理想と現実を時間が引き裂いている。
そもそも同じ流れに乗るものではないのかもしれない。
しかし、想いと思いを同時に抱く人は、時間から逃れられない。
薄れゆくものと闘い、今と、そしてこれからと闘わねばならない。
型を整えただけで元に戻るものでもない。
元あった形になるまで戻ることはない。
この2つの間に流れる時間にいかにして押しつぶされずにいるか。

どの程度「程度問題」として問題視し取り組むのか。
残った者と去った者との間をつなぐのは思いの強さの違いだけ。
そう言い切れたらどれほどか楽だろう。
思いを残して去る者もいる。
想いゆえに残る者もいる。
事情と状況が許さないだけでまったく異なる道を行く。
けれど、終わってはいない。
その時まで、互いに辛抱するほかない。

やがて亡くなる者が出る。
そして知らない者が来る。
そうやって流れていく。
そうやって繰り返す。
その果てに行き着く先がきっと、元あった形なんだろう。
同じ人達が同じように同じ形には戻れないだろう。
そこに想いと思いが乗った時間が必要になる。
自分だけでしなくていい。
引き継いでいこうとすればいい。
回復ってきっとそういう意気込みだろう。
復興って力み過ぎなくていい。
他所からの力より地所からの力を信じたほうがいい。
伝わるものや伝わることにはおそらく限度がある。
忘れずに見守り続けてくれればいい。
安心して集中できるようにすればいい。
それでだいぶことは進むはずだから。

3.11は単なる3.11ではない。
地震がある、豪雨がある、噴火がある、台風がある。
自然災害との付き合いはいつも身近にある。
犠牲者の多さや影響の大きさだけで語られるものではない。
事前の心構えと渦中の処し方と事後の意気込みと。
一連の中にある自分をどう位置づけるのか。
当事者でない自分をどう位置づけるのか。
経過に何を見るのか。

思考とは思い考えること。
対象に包まれながら思考すること。
一歩引けないところでも思考しなければならない。
例えば、生についての思考もそうである。
思考することが、生という現象である対象に包まれている。
死について思考することはできても死して思考はできない。
限界は見えないながら限度があることを知っている。
一点か一線か一面かはわからないが境がある。
起こる前と起きた後。
生まれる前に私が私として思考できず、死して出来ないのと同じ。
しかし、人は習い、倣うことができる。
予習し備えることができる。
思考が蓄積であるとするならば3.11とはつまり、思考の1つである。