まず、ネット上で出合った次の文章を読んで欲しい。

たぶん耳が聞こえない人が落としたものを拾って渡したら
メモ用紙をみせられたそこに「ありがとうございます」と書かれてたの思い出した
しかもノートの一番最初のページでポケットから出したら
すぐその言葉が見えるようになってんの(意味わかる?)
この人は新しいノートにするたびに最初にありがとうと書く優しい人なのかな


思うところが人それぞれなのは承知している。
しかし、私がこれを紹介したのにはある意図がある。
率直に言えば、いい話でしょ?と、いうこと。
けれども、本題はそこにはない。
私の思うところを表明したいということ。

する側、される側というのがある。
上の文章を例にすれば、語り手は拾ったことで「された側」。
文章の本題は、拾ってもらって「した」あるいは、「(想像)させた側」。
実際にまだしていなくても、するだろうと思わせる人がいる。
それがいい方向でも悪い方向でも。
予見可能性と難いこと言わなくてもいいけど、それが人柄の要素。
上の文章には2人の登場人物がいて、どちらもあたたかい。
だからこそ、いい話なのだろう。
示唆する一言が余計に感じても、最終的には引き締まっている。
ノートの最初にある言葉への想像力。
こういうのが人のあたたかみだろうと思う。
人と出会う事の重要性を言われる場面は多いだろう。
その根拠を求められたら、この文章の2人の登場人物を思えばいい。
出会うことだけに然したる意味はないかもしれない。
出会って何があったのか。
何がどう動いたのか。
ここまでが、文章を読んで直接の思うところの表明。

次からは、読後感(読中感)の私事との関係から。
筆談の経験者であるところの私はひどく焦った。
忘れてしまったことに傷ついた。
いったい自分は何なんだと嫌悪感で苦しい。
声が出なかった頃の事をできれば思い出したくない。
私は、常にありがとうから始まるタイプではなかったから。
筆談が手段でしかなかったのは、手段の応急処置でしかなかったから。
声が出れば声で話をする。
声が出ないから紙で話をする。
紙で話をするために注意を引くのにどうすればいいのか。
大声で叫ぶわけにはいかない。
分からなければ訊けばいいが、訊く事は大変ハードルが高い。
困っている雰囲気を出すのに気を使うイヤな人間。
人の善意を前提に行動するのは気が重いものだ。
いち早く声の回復を願ってばかりいた。
そんなだから、メモの書き出しは「すいません」だった。
言い訳をすれば、これはそう卑屈なわけでもないかもしれない。
声をかけて注意を引くときも、「すいません。いいですか?」になる。
話が逸れた。
声の回復のために人との接触と言っても買い物での店員とくらい。
散歩中にそうそう声をかけられるものでもない。
となると、自然、店員と商品がどこにあるか程度の会話になる。
声を出しながらメモを見せると大概勘違いしてくれる。
聴覚障害者に思われるのがイヤとかそういう筋ではない。
むしろ、そういう相手として対応された方が事の運びは速い。
結果、これらの一連が声の回復に効果的かどうかはわからない。
ともあれ、訊けば答えてくれる。
声を張ってくれる。持ってきてくれる。連れて行ってくれる。
そこでやっと「声で」ありがとう、助かった、と伝える。
当時はいっぱいいっぱいであまり考えていなかったか。
たぶん違う。
その場で「書いて」ありがとうを伝える度胸がなかっただけ。
相手に聞こえないならそれでもいいや程度だったのだろう。
今思えば、その程度だからなかなか声が戻らなかったとも思う。
感謝の気持ちは伝えて多すぎることはない。
出し惜しみするものでもない。
それが自然に出ないから、自然に出るはずの声も不自然だったのだろう。
それがそうだとして、では、今はどうだ、と問う。
当時、すいませんで始まり、最後に形ばかりであれありがとうがあった。
今は、すいませんで始まり、すいませんで終わってやしないか。
感謝の言葉が言えるのに、形すらもなくなってやしないか。

常にありがとうを用意してある人。
出す機会をうかがうのではない。
恩着せがましくいつも出しているのでもない。
必要なときに必要なありがとうが出せる人。
そこにあるのは声以上、紙以上の心と言葉。
1つの場面から得ることは多い。
実際に自分が関わっている必要はない。
重ね合わせる気があるかどうか。
自分に置き換える気があるかどうか。
最初に示した文章との出合いは、私に登場人物と出会わせた。
このこと以上に文章の可能性と実状を結ぶ影響力もないだろう。
1つの場面から少なくとも2人の語り手が出たのだから。