例えば、消しゴムは使いきれるか?との問題提起をする。
この話題に乗れる人と乗れない人がいる。
どちらに対しても良し悪しは決められない。
しかしながら、乗れる人を好ましく思う。
この時点で「好ましい」という色眼鏡がかかっている。
もし「つまらん奴」と思ったとしても言わなければいい。
乗れる相手でなくても、こう言われたらどうだろう?
「何か、消しゴムって気がつくとどっか行ってるわ」
なるほど、この意味で私も使いきった経験がない。
実生活上でのある種の答えが出た。
だが、この意味での問いかけではない。
話が噛み合わなくとも会話が成立する。
ところが、こう来るとどうにもならない。
「消しゴムが使いきれるか?だから何なの?」

他の例として、絵画展に出かけた場合を考える。
目玉の作品というのが用意されている。
下世話な話、相当高価である。
ここで色眼鏡がかかっている。
相当の絵を期待するけれど、基準が貨幣である時点でそもそも不安定。
1万円が1万円の価値を持ち続けていればいいが、そうではない。
「今の金額に換算して」とのフレーズを思い出すとわかりやすい。
それは置くとして、市場価値が絶対的指標でないことを忘れがち。
市場価値の高い物が芸術的価値として高いのではない。
芸術的価値は、「芸術に対して」価値があること。
芸術に対して価値があることは「市場価値としても」価値がある。
第一義的には、芸術が芸術に貢献したことの価値だと思う。
芸術的価値を英訳すると2通り出る。
・artistic merit  メリットは称賛に値する価値
・artistic value ヴァリューは実際的な有用性・重要性からみた価値,値打ち
美術品を見に行くのか芸術品を見に行くのか混同することがある。
どちらかとして割り切れるかどうか難しい。
美術品であれば、「特別な絵だからきっと高価だろう」でいい。
芸術品であれば、「特別な扱いを受けるのも納得」がいいのかもしれない。
高価であると言われなくとも、「特別」であると知らされる(感じさせられる)。
その特別が何に根差すのかを確かめに見に行くのだから。

さて、色眼鏡がかかることは良いことか悪いことか。
それ以前に、色眼鏡とは何か。
その後、色眼鏡は何故かかるのか。
色眼鏡がかかるのは良いことか悪いことかへと順を追いたい。

色眼鏡は、先入観のような概念、あるいは、サングラス。
必要だから用いることが多いのだろう。
先入観は予備知識を持つことで理解を促進するかもしれない。
しかしながら、知識などに捉われると偏見につながるかもしれない。
このことをサングラスが象徴的に物語るのではないか。
強い陽射しを防ぐけれども視界が悪くなる。

色眼鏡がかかるのは何故だろう。
かけたからと言えばそれまでだが、では、何故かけたのか。
円滑に進めたい。
対象への理解の補助的作用としてかける。
そのかけ方がまずいと問題が発生するのではないか。
理解を妨げるのは、予備知識を吟味しないゆえか。
鵜呑みにすると判断基準が自身の内側に根付かない。
よって、付随的な一般化された基準に頼ることになる。

結局のところ色眼鏡は良いのか悪いのか。
単純化すると、良い時も悪い時もあるし、関係ない時もある。
対象物に対して直感的に「いい!」と思う時や「好き」と思う時、関係ない。
そして、それ以上に明確な評価を下せないだろう。
精査し、分析し、芸術としてその成り立ちを解明するのでなければ。
好きな絵でないけれど技法などが素晴らしく芸術的価値は高い。
このような価値判断をする評価者は専門家でないと難しそうに思う。
だがどうだろう、専門家は芸術的価値が高いけれど嫌いな絵はないのか?
この疑問はそこに色眼鏡の存在を確かめなければ解決しなさそうだ。
そして、その対象たる専門家でない自分では確かめようがない。
ただ、「専門家なら」という色眼鏡をかけて思いを巡らせるだけである。