書こうとすら思われない日々が続いている。
やっと書きだした今この瞬間もその思いに変わりはない。
だが、これまでの日々において心の動かなかった日はない。
このことが良くもあり悪くもあって書く意欲とならなかった。

ある日においては、思いが大きくなりすぎて想いに負けていた。
ある日においては、思いが深くなりすぎて言葉にならずにいた。
総じて気持ちが言葉になる以前の「何か」のまま悶々とわだかまる。
ある時期から澱となり重く気持ちごと沈み込んでいた。
明るい話題もあったがそれを取り上げる余裕はなかった。
ポジティブもネガティブもその延長線上を見てたじろいだ。

7月は1度も書かなかった。
この事実を以前は重大な事と捉えただろうけれども、現在は少し違う。
8月に書けたからいいのではないかと。
鬱屈し悶々とした日々の中にあって書こうとの爆発力が生じた。
単純に驚きを覚える。

8月は特別なのだと改めて思う。
戦争と平和に思いを巡らせる時、兵器が介在する必要はないのだと感じた。
もはや、戦闘行為のみが戦争ではない。
力の行使は総じて闘争なのではないか。
いかにして力を律するか。
このことが非常に重要な課題なのではないか。
端的に言えば、力の平和利用の可能性をも再考すべき時かもしれない。

原爆と原発。
原子爆弾と原子力発電。
ある意味においてイコールだとの意見が聞かれた。
同感であるが捉え方は異なる。
聞かれたのは危機的な状況に置かれている場合、同等との考え方だったから。
原子爆弾を使用した側にとってのそれは平和利用である。
自国民を戦禍にさらさないために講じた戦闘行為の手段である。
敵国に被害が及ぶことが戦果となる非常時の事であり評価は難しい。

平和利用という言葉の意味するところがわからなくなった。
動力として原子炉を用いている原子力空母や原子力潜水艦は兵器である。
さて、原子力発電所と何が違うのか。
発電を目的とする発電所と、動力を得る目的の軍用艦船の違いはある。
目的の先にあるものの違いだけでまったく別物になるのだろうか。
単に反原子力を訴えたいのではない。

原子力が根絶されることは必ずしも善ではない。
少なくとも現在の生活レベルを下げないことを前提にすれば悪である。
これまでの原子力利用実績を振り返ることも必要ではないか。
もとより人知が及ばない対象ならば、これまでの実績は0であったはず。
しかしそうではない。
扱い方がわからなかったのではなく、扱う上で注意すべき点に欠陥があった。
最悪の事態が想定された以上の最悪さであった。
となれば、原子力がもたらし得る効果を両面的に再考すればいい。
表裏一体の力の制御が簡単でないことは想像に難くない。
特に軍事利用の暴発で平和的結果が起こるとは思えない。

今年の広島・長崎での平和宣言は例年と趣を異にしていた。
原爆投下の被害のみならず、事故による原子力の影響を体験している。
これに言及しての宣言を受け首相は原子力に依存しない社会作りを明言した。
恐ろしきは関わらず。
それで解決するとは思われない。
代替エネルギーを模索するだけでは変わらない。
高エネルギーに依拠したシステムには言及されない。
加速していく流れに逆らうことが悪であるかのように思われる。
戻ることが出来るのにそれは極力避けたい。
この本音が見えた上で、戻る選択をうながして効果が期待できるだろうか。
より安全で安心な技術の向上を目指すことが進歩のように思われた。
この進歩を止めることは英断だとは思えない。
原子力の脅威を取り除くためには今まで以上に理解を深めなければならない。
無くなることのない放射性物質が堆積した地球もまた無くならないのだから。

ところで、この頃何をどう考えればいいのかがわからない。
考えた先に見えたものも信じられない。
言葉にして出すことに後ろめたさを覚える。
震災後すぐには生きているだけでよかったのかもしれない。
5ヵ月たった今、何かしら行動しなければならないのかもしれない。
例えば、元に戻す為の活動も「生の行使」だろう。
ところが、戻るが出来ない人達はどうすればいいのか。
迷わず進めばいいなどと簡単にはいかない。
ある人にとって時間は静止したままということがあり得る。
進むことも戻ることもままならない人を責めることは出来ない。
何を以って責めるなど出来ようか。
そして、責める側は何も責められることなど無いとどうして言い得るのか。

言葉になっていないかもしれない。
希薄な文字しか書けていないかもしれない。
それでも文字を書くことが出来たのは「生の行使」であると思いたい。
再び言葉を綴るのが目標であり、生の目的と定めて生きる。
これが現時点での精一杯かもしれないと感じる。