ある日、ある時を境に生活が激変するような出来事はそうそう起こらない。
そう思って生きる人は少なくないだろう。
そして、実際にそれが起こっていたとしても自身に起こらなければ気づかない。
1日として「何でもない日」は無いのではないか。
関係していれば重大な出来事。
そうでなければ、日常は変わらずに進んで行く。
人が歩むのではなく、時が刻まれその事で進んでいる様に錯覚するだけ。
自分が止まっていても物事だけは進む様に感じる。
この感覚が止まっていると自分だけが遅れてしまうとの恐れを生む。
この恐れの感覚は、普段意識されない。
意識されない方がいいのだと思う。
平穏とはその状態を言うのかもしれないから。

毎日の生活が平凡過ぎるから刺激が欲しい。
このフレーズはとても貪欲な望みではないか。
命の危険がなく、それでいて非日常的で、その上展開が拓けることを望む。
言うなれば、外れのないギャンブル。
ナンセンスだけれどもそんなこと気にしていられない。
変化が刺激なのだ。
いつもと違った展開。
それだけでワクワクする。
本当はきっと、毎日違った日を生きるだけでワクワクできるのに。
思うことが出来る人と、そうでない人の差は大きいのかもしれない。

実際に変化が訪れた時、どう反応するのだろう。
望んだ変化以上、日常が激変すると何を望むのだろう。
平凡に満ちた、その時、以前の日常を焦がれる。
当たり前が当たり前で無いことの不安。
当たり前の中にいて蔑ろにしていた日常。
不自由でない生活はあまりにもかけがえのない「不自然」で出来ている。
自然に任せていると機能しなくなる物で世界は覆い尽くされているかの様。
保守。
その意味するところの大きさ。
維持ではなく保守。
ただ保つのではなく、正常な状態を重んじて保つ。
常は常ならず。

基点は常に日常の中にあるのだと思う。
よって、常に起点は動く。
今日は昨日の分変わったのだし、明日はきっと今日の分変わる。
その変化は程度問題なのだろう。
激変を予測して日々を送るのではない。
昨日描いた世界が今日に続いているとは限らない。
同様、今日描いた世界が明日実現することを前提に生きてはいない。
ある程度の範囲内で実現したらいいとの予測だろう。
激変を日々見越していたのでは毎日が空振り。
そして、何を、あるいは、どこを基点にするのかすら定まらない。
このことが、「今日」を存在することにしている様に思う。

とはいえ、激変後も終りから始まるのではないだろう。
まずは激変以前を目指す。
このことは未だ終わっていなかった時間へ帰そうとする試み。
完成がなければ終わりはない。
流動的な時間と空間にのっかって生きている。
変わってからも生きなければならない。
では、何が変わったのか?
生活の土台となる条件が変わったのだろう。
平穏から混乱へ。
沈静化とは、混乱を平穏へと帰し、保守する一連の流れではないか。
保守の最中にも発展が望まれる。
この発展を向上と呼ぶのなら、その為の活動は実り多いだろう。

ここで言う激変とは何か。
不可抗による影響。
大きな括りとしての自然による影響。
地震、津波、原子力。
防ぎようがないのはどれも同じではないか。
原子力は違うと思うかもしれない。
そうだろうか?
物質を「制御棒」で制御する。
制御しなければ物質の持つ「自然」な働きのままに活動する。
科学力で自然力に打ち克つのは相当困難であることを露呈する。
しかしながら、それを可能にしなければならない。
これに似た努力が過去にも多く刻まれ成果と呼ばれている。
成果は乗り越えて後に出来あがったものに与えられる。

今、ただ中にあって何が出来るか。
過去から学ぶべきことは何か。
未来を先取ることは可能なのか。
現在わかっていないことを基にして進めることは出来ない。
焦ってはいけない。
真っ直ぐに見据えてわからないことをわかるための行動をする。
わかっていることを実践する。
最低限にして最優先。
当たり前の最善手を打っていくことが切り札なのかもしれない。