限界を感じ取った。
直接言わなくても、こういう類のニュアンスは伝わる。
喩え口から発せられた言葉であってもそれ以外から感じ取る。
喩え口から発せられた言葉でなかったとしても言葉の様に感じ取る。

裁判員裁判で言い渡された死刑判決。
制度開始から1年半を経た今、満を持してとの印象を受けた。
ひどく厭らしいけれど「お誂え向け」な事案だったのだろう。
それを何故そう感じたのか?
報道のされ方に影響されているのは間違いない。
特に、比較して語られた事案とこの事案をつなぐ言葉がどうにも引っかかる。
「より難しい判断を迫られることになりそうです」

命乞いする相手の首を生きたままはねる行為を裁くのより難しい?
真犯人がいるかもしれない証拠不充分のまま裁く方がより難しい?
同列に語られることであっていいのか。
裁判の枠内にあって、無論事案は客体として同列である。
そのことは承知している。
問題にしたいのは、「一般人感覚の導入」として求められる裁判員の役割。
同じ負担を負っている、いわんやより一層難しいと比べられようものをや。
どちらも重複しない個別的で難解な判断を余儀なくされている。
比べる必要性が見当たらない。
同じ裁判員が両事案を判断するのではないのだから。
そして、そのどちらもが「一般人感覚」の代表として語られるのだから。

横浜事案裁判長の言葉が重い。
「裁判所として控訴することを勧めたい」
裁判員裁判の導入がなければ聞かれなかったであろう言葉だと思う。
何故か?
裁判の限界を露呈することになるから。
上級審によって逆転無罪や減刑となれば死刑判決言い渡しの責任が軽くなる。
つまるところ、他人事の事案で自分が人を殺す重責を誰も負いたくない。
かたきうちは仕返しをするばかりでなく、恨みを晴らす機能がある。
それは当事者によって行われなければ遺恨を残す。
死刑が執行されたとしても残り続ける。
重要なのは成し遂げたという実行による恨みの昇華作業ではないか。
ところが、この連鎖を断ち切らない限り殺人が止まない。
そこで間に入った役人が「仕事として」恨みを引き受けた。
しかし、思いをすべて引き受けることなど出来ようはずがない。
罪を憎んで人を憎まずは実践されたかもしれないが、それでは済まない。
多くの遺族にとって「その人が」犯した「罪を」憎むだろうから。
これゆえに真実の解明も重要とされている。
誰が犯した真実としての犯罪なのか。
このことを究明し処断するのが裁判の役割ではなかったか。

量刑とは一体何か。
被害者の数で違っていいのか。
犯行手口の計画性、残虐性、非人間的行動で決まっていいのか。
手口が残虐なら死刑が「妥当」であると直感的に思ってしまっていいのか。
もしそれが「一般人感覚」として導き出されたのに控訴を勧めていいのか。
極刑を以って臨まざるを得ないが判決の責任をケアする体制が整っていない。
このことを裁判長は伝えてしまった。
これまでも無かったのだと伝えてしまった。
言ってはいない。
言ってはいないけれど切な思いを感じ取ってしまった。
誰がこの重圧を引き受けられるだろう。
この重圧は遺族とも分かち合うことが出来ない。
ひどく孤独で困難な役割だと思う。

何が限界なのか。
遺族と被告人とのやりとり。
「命を以って償う気持ちはありますか?」
「はい」
どういうことか。
犯した罪の重大さを認識し、それに対する罰の重さも理解している。
これは責任能力があることを意味する。
責任能力とは、事物の是非・善悪を弁別し、かつそれに従って行動する能力。
つまり、事の重大さを理解した上で非人間的な行動を意図的に行った。
よって裁かれる対象となる。
どんなに非人間的行動でも人間の行動として処罰される。
「抑えが利かなくなって」
「魔がさして」
ゆえに人間性を失っていても処罰される。
常に抑制が利かない状態であれば処罰を免れる。
このため意図的に抑制の効かない状態で行った行為は罰せられる。
これはしてはいけないことを理解した上ですることは罰せられることに依る。

頭でわかることが心で受け入れられることとは限らない。
心で受け入れたことをそのまま表に出せるとは限らない。
罪は悪なのか。
善のためには必要なのか。
悪がなくても善は善としてそのままあるのか。
どうやってそれを判断するのか。
その判断に責任は必要なのか。
必要なくても責任を感じてしまうとしたら何が解消されればいいのか。
解き消されるにはわからないことが多すぎる。
自然な事とは何だったんだろう。
考えたり想ったりするには課題が大きすぎて限界っぽさを覚える。