昨日実践したことと今日実践しなかったことは異なる。
作為不作為(したかしないか)の観点が直感的である。
続いて実践されるべきだった内容の相違に視点が移る。
昨日実践したことと今日実践したことは異なる。
内容と前提の観点である。
実践したことが同一でない場合、あるいは、同一の場合の経験値の相違。

1文の中から少なくとも2つの異なる解釈を導き出す。
それぞれについて細かに具体例を検討する。
思考とはそういう事なのだろうと考える。

考えることは善であろうか?それとも悪であろうか?
考えないことは善であろうか?それとも悪であろうか?
どれが正しいかは時と場合によって異なるだろう。
常に、考えることは善ではないと思う。
だからと言って、考えないことが善であるというのも腑に落ちない。
逆に、考えることが悪であり、考えないことが悪である場合はどうか。

整理する術を身につけ行動すること。
実践を上記の様に定義すると重要なのはむしろこちらではないか。
考えることの始まりと終わりに実践がある。

考えの善悪について何を基準とした善悪かが前提される必要がある。
例えば、迅速な行動を基準とする場合。
考えることは必ずしも善ではない。
機械的に行動することが善であり些細な部分に気を留め考えるのは悪である。
故に、考えないことは善であり考えて時間を浪費することは悪である。
では、迅速な行動が求められる場合とはどんな場合なのか。
命に関わる緊急時を想起するのがわかりやすい。
1秒の遅れが生死を分かつ場合、時間の浪費は悪であろう。
だがしかし、1秒の遅れを生じさせないために考えることは悪だろうか?
1秒速く行動したために、慎重でなかったために失敗したらどうだろう?

事態は、特に緊迫した事態の時は、善悪は表裏一体であることが多い。
究極的な判断を迫られる際に善悪を思いながら行動するのかが疑わしい。
少しでも善悪を思う余裕があればそれは究極的状況ではないと思う。
それが命に関わることであっても、善いからする悪いからしないではない。
するべきであると信じていることが行動に出て答えを示すのだろう。
それが概ね道徳的に善である場合に讃えられ、そうでない場合に非難される。
勇敢に救助に行き、助けたけれど自身の命を落としたなら完全な善ではない。
助けに行き、助けられずに自身だけ助かった場合、同じく完全な善ではない。
どちらも成り立つだろうか?
どちらも成り立たなければいけないだろうか?
自身の危険を承知の上で助けに行く行動は結果を待たずに善ではないのか?
自身の危険を承知の上で助けに行かない行動は悪とされるべきことなのか?

善悪に返ってこなければならない。
このことから抜け出すことができない限りにおいて不自由であり続ける。
現実には善悪混在の中から抽出されたものが知らされるばかりである。
ほっとする出来事は毎日どこかで起こり、また、同時に凄惨な事も起こる。
善が必ず達せられるべき目標だとしたらこの現実は有り得ない。
ところが、善が万人に統一され得ないからこそ現実は成り立っている。
理由は上に示した具体例の通り判断がその人由来のものだからである。
個人を尊重するということは、つまるところこういうことだろうと思う。

哲学が好きかどうかはわからない。
異なることや何故異なるのかや異なるとどうなのかを考えるのは楽しい。
考えたことを整理し書き留めるのも楽しい。
好き嫌いを意識せずに行うのが哲学ではないかと感じている。