家にお宝がある。
しかも、国宝。
間違いではないが正確な表現でもない。
けれど、伏線としてはこう書いて差し支えないと思う。

お宝とは鳥獣人物戯画。
歴史の教科書で見た覚えがあるかもしれない。
ウサギとカエルの相撲。
サルの僧侶。
カエルの仏像。
これらがまるで人物の様に描かれた絵巻物。
「あ〜」と、思い出したかもしれない。
記憶の糸を手繰っていくと違和感に出くわす。
鳥獣戯画で習った記憶に行き着く。
ともあれこれは間違いではないとわかる。
特徴を捉える為には、鳥獣戯画で十分だから。
それが授業で教わる程度の理解に必要な情報なのだろう。

家にある鳥獣人物戯画はもちろんオリジナルではない。
ところが、東京国立博物館と京都国立博物館の国宝もオリジナルではない。
それはお宝がお宝であるが故に生じた境遇だと言っていい気がする。
時代を越え受け継がれる間に劣化や焼失の危機を乗り越えている。
これらの危機を乗り越えても受け継がれるべき魅力があってお宝なのだ。
と、いうことをテレビでの特集番組を見て感じた。

まず、オリジナルがオリジナルでないとはどういうことか?
平安期に描かれたとされている鳥獣人物戯画。
800年近く歳月を経ている。
これまでに補修が繰り返されているとのこと。
絵巻物はでんぷん糊でつないであるが100年程で傷んでしまう。
そのたびに新たに糊をつけ変えねばならない。
今現在の姿はつなぎ目に高山寺の割印がある。
これは江戸時代の補修時に捺されたのだそう。
この割印がオリジナルとは違う姿で今に伝えられていることを教えてくれる。
画面の連続性が断たれていることが如実にわかる。
また、他の痕跡もある。
火事によって焼失した部分を補修した形跡もみてとれる。
これが本来2巻に分かれていたものを1巻につないだことを教えてくれる。

研究者の目は凄い。
対象物を知ろうとする気持ちの強さが凄い。
そこから推論すること、他の資料を吟味すること。
最終的には本来の姿(オリジナル)を描き出してしまう。
ここで重要なのが資料の存在。
断簡と模本。
断簡とは作品の一部でつなぎ合わされていないもの。
模本とは作品を写して作ったもの。
6枚の断簡と2巻の模本によってオリジナルの姿が推論できるのだという。
推論に基づきデジタル処理を施して復元されたオリジナルの姿を見た。
2巻の流れに滞りがなく見ごたえたっぷり。
生き生きとした描写やアングルの工夫や細部の精緻さも楽しい。
しかし、その姿は実際には見ることはできない。

手元にある鳥獣人物戯画を見ても今現在の国宝のレプリカでしかない。
その上、制作者自身の手による複製品(レプリカ)ですらない。
では、国宝と手元にある巻物とどれほど違いがあるのだろう?
大した差ではない。
手元に置きたい国宝を実際に作ってもらえたことはありがたい。
特に画面から楽しさを感じる作品だからこそ、何度も見られる良さがある。
オリジナルが存在しない事を知っている面白さ。
本物を夢想し続けることが出来るのも楽しみ方かもしれない。