進めない時どうするのか。
立ち止まってみるのもいいらしい。
「のも」と書いた。
立ち止まる「のが」と、選択の余地を無くしてしまいたくない。
立ち止まることを選択する場合。
これが耳馴染みのある場合だというだけのこと。
他の方法は果たしてないのだろうか。
それ以前に、立ち止まって立ち尽くしているだけで解決するだろうか。

状態についてなのだと思う。
どんな状態でいるのか。
歩いて、もしくは、走っていた。
それを止めるのが立ち止まる。
他に移らずそこに留まっている。
これも立ち止まる。

立ち止まって動かないのは、立ち尽くすではないのか。
どうすることも出来ずに立っている他ないなら立ち尽くすだろう。
感動や呆然とする事で衝撃を受けて、なおくずおれることすら出来ない。
それ程であれば立ち尽くしているのだと思う。
立ち止まった後、キョロキョロする。
こちらの方が現実的だろう。
さてどうしたものかと手がかりを見つけようとする。
動き出す前に出来ることをしようとする。
立ち止まるのを準備している状態なのだと捉える。
立ち続けている必要がないので、寝てもいい。
むしろ、寝ることこそ必要な場合が多い様に感じる。

ところで、進めずにいた場合どうか。
足踏みなのか地団駄なのか。
進めずにいるというのは進まずにいるのとは違う。
進もうとの意思に反してそこに留め置かれている。
外的要因だけでなく、内的要因によっても起こる。
こうしたいのにそれをどうやってすべきかの考えがまとまらない。
自分で歩き出すのに待ったをかけている。
言うなれば、自分に対して地団駄踏んでいる様なもの。
これに対して、足踏みはウォーミングアップ。
進まずにいるだけ。
堅実に行くために準備をしている。
「さぁ!」と、一歩を踏み出すまでの時間。
実際のところこの2つはめまぐるしく入れ替わるのかもしれない。
特に、創作とはこの過程が結果に大きな影響を与えるように思う。

歩いて立ち止まって足踏みして歩いて走って歩いて立ち止まる。
勢い付かずに歩き続けるのもいいかもしれない。
足踏みから一気に走ってその最中に足踏みを兼ねるのもいいかもしれない。
もっと激しく、走って寝込んでもいい。
それもある意味では休息なのだし、それが合っているかもしれない。
どれを選ぶも、どれが合うも試してみない事にはわからない。
やってみてもわからないかもしれないけれど、それがわかれば次がある。

くずおれられれば幸せかもしれない。
立ち尽くすのは苦しいかもしれない。
外に見えるか見えないかの差はとても大きい。
けれど、どちらにせよ立ち直すことは出来る。
その気が起こるにせよ、起こされるにせよ、気づくと立ち直っているにせよ。
やめる方向に進まない限り立ち止まっている状態にすぎない。

この考えが見えてくるまでの期間は足踏みだったのだと思う。
地団駄も多く踏んだ。
そして、結果足跡を記した。
満足。
次には何を想い考えよう。
もう足踏みを始めて地団駄踏むのが楽しみ。