戦没者の方々に深い哀悼の意を表します。
この思いが途絶えることがない様に、平和を希求する心を持ち続けたい。

戦争とは何であるのか?
この問いに対し、我が国とは無関係な出来事。と、返答が来る日が来るかも。
果たしてこの返答は適切だろうか?
戦争を知らない人が増えた。記憶の風化が怖ろしい、と耳にする。
そんなことはないだろう。
紛争は今なお続いている。
戦時国家に属していなければ平和なのだという感覚こそが恐ろしい。
同盟国や国際社会の要請に応える為に後方支援を実施するのは国益に叶う。
しかし、その代償として地球規模での恒久平和に反する。

戦勝国の首脳級が原爆慰霊祭に初めて参加したことが話題になった。
国連事務総長が初めて参加したことも話題となった。
核兵器廃絶の機運が高まる中、被爆者の現存が高齢化に伴い危ぶまれる中。
きっと、正しい方向に向かっているのだろうと思う。
過去に目を向けることは大事だし、そこに留まっているだけではいけない。
過去を未来へとつなげていくために今すべきことをする。
それが歴史を良い方向へ導いていく方策ではないかと思う。

ところで、記憶の風化に抗すべき手段は何かをつくづくと考えさせられる。
最も有効な手段が最も回避すべき手段であることが明白だから。
その目的の正当性を訴えたとしても、その正当性を正当化する根拠が無い。
もしも、目的を達する為に実行したとすればその国は称賛されないだろう。
しかしながら、記憶は鮮明なものとなり、脅威の再認識として功績は残る。
功績?一体誰にとっての功績なのか。
人類にとっての功績であると考えることも可能だろう。
抑止力の効果に期待し持ち続ける体制を維持し続ける限りにおいて。
世界が威嚇の上に均衡感を成り立たせていることに不自然さを抱かない。
しかも、あくまで「均衡感」であって均衡を保っているわけでもない。
この事があまりにありふれた日常の根底にあるから見向きもしない。
いや、むしろ、気づくことすらないのかもしれない。
その事を誰が誰に対してどの様に責めることが出来るのだろうか?

戦争を想う時その対にあるのは平和ではないのだと思う。
だからと言って、正しい戦争があるとか、推進すべきとかではない。
重要な事だが忘れがちな事がある。
国連憲章によって法的に規定される上での戦争は存在していない。
にもかかわらず、戦時国際法により軍事組織の義務が明文化されている。
侵略であれ防衛であれ武力行使による被害を最小限にする目的がある。
つまり、人道的な武力行使を消極的にではあるが肯定している。
効果として、戦時における武力行使を超法規的措置として肯定した上で、非人道的な行為を容認する国策を否定することがある。
要するに敵の撃滅の為の措置を認め、不必要な行動の禁止である。
まとめると、キレイな戦闘は認められているということ。
このことからも和平協定締結への働きかけを国連がするのも頷ける。
戦時から平時へと移行すればいいのであり、平和を求めているのではない。

戦闘が無いに越したことはない。
闘争が無いに越したことはない。
では、競争の原理によって勝ち負けがつく物事を否定しうるか?
無理だろう。
それは可能性の追求でもあり希望や感動や連帯感の種でもある。
ならばせめて極力悲しみの少ない、痛みの少ない、悲惨さのないを目指す。
「あらそい」を考える時、3つが一体となると戦争になるのかもしれない。
技術力や物量競争によって闘争に打ち勝つ為の戦闘行動が戦争である、と。

戦争を美化することなど望まない。
無くせないけれど、起こしてはいけない事を忘れない様にと願うばかり。