昼よりも夜が好き。
それだけで夜の住人としての資質は充分だと思う。

今年は月食の当たり年。
年に3度月食が見られるのは珍しいとのこと。
その珍しい事に今年は恵まれる。
今日は元日に引き続い第二弾。
8時38分に最大の部分月食が起こる。
次の月食の機会は12月21日の皆既月食となる。

天体ショーと言われるこれらの現象。
去年は皆既日食があり、昼間にもかかわらず真っ暗となった海外の映像。
日本では天候不順の為にツアー客は大雨に見舞われながらも真っ暗を体験。
不吉の前兆として捉える文化もあり、単に珍しいからと見る人もあり。
珍しい現象を前にして、非科学的だとか何とか言うのはつまらない。
特別や特殊に独特の意味付けをすることが、文化的であることの醍醐味。
そんな風に感じる。

さて、夜の住人。
闇の住人ではないことに注意したい。
闇の住人は、深い暗さに身を潜め暗躍する様な黒いイメージかもしれない。
もしそうだとすれば、そのイメージと異なる為に夜の住人とあえて分けた。
夜の住人は、もっと穏やかで静的で内側に深い黒を抱え明るさがにじむ人。
活発に仕事をすることは条件に含まれない。
「夜」の持つ、あるいは、「夜」が担う時間区分の中での活動が好きな人。
星空を眺めたり、多くの人が寝静まった後の静けさに安らぐ人。
「明りが灯されていること」の背景に想いを巡らせるのが楽しい人。
夜を媒体に世界が広がる人と言えば想いに最も近い。

専ら想いに耽る。
騒がしさの中からヒントを得るのが昼間の役目。
静けさの中にバッ!と、ヒント達をばらまいて連結を考えて行く。
目を閉じていても開いていてもあまり変わり映えのしない暗さ。
感覚を遮断されることで他の感覚が冴えてくる。
音もほとんど聴かれないし、味も感じない。
組んだ腕と寝床の感触程度の触覚。
いつも通り嗅ぎ慣れた巣としての部屋の匂い。
五感以外の感覚が冴え渡ってくる時。
「何が」冴え渡ってくるのだろう?
この疑問が浮かんだ時にはきっと、「何か」が冴え始めている。

思考とは一体何なのだろう…?
どこに向かっていくのだろう?
行き着く先はあるのだろうか?
ところで、行き着かないとどうなるのだろう?
どうせわからないから考えても無駄なのか、わからないけどわからないなりに考えるしかないのか。
でも、考えなくても生きていけるし、考えるだけでは生きていけないし。
考えてもわからないとつまらないけど、考えてわかると楽しい。
けれど、楽しいからって理由だけでわかりたいと思うのでもない気がする。
わかるってどういう状態なんだろう?
理解って出来るのかな?
それを伝えるのが難しいのって、当然かもしれない。
「何で」こんなこと想い始めたんだろう?
どこから始まったんだっけ?
始まりがわからないのに、終わりがわかりっこないか〜。
本当のところ、まだ始まっていないのかもしれないし、まだ始められていないことで終わってるのかもしれない。
いつもこんなだな〜。
今日はこんな事に気づいた、こんな風に感じた、それらを確認してる。
気がつくと時間は朝に日付は次の日に進んでいる。
夢だったのか「考えた」ことだったのか。
たぶんこれ位のことをするのに、夜の暗さと静かさが好きなんだと思う。

1年に3度の月食は珍しいこと。
次にその珍しい年が訪れるのは84年後。
どんな計算で導き出せるのか知らない。
次の機会には巡り逢えないだろうと漠然と想う。
太陽と月は84年後も無事なのだろう。
だからこそ導き出された計算のはずだから。
けれど、導き出した人間は無事ではいられない。

命の限度は越えられない。
無期限ではいけないとも思える。
長く生きるのは、内容が伴って素晴らしい。
短くても素晴らしい生き方もあるから。
生きている人間が食べるのには理由がある。
月が太陽を食べたり、太陽が月を食べたりに理由はない。
実際には食べていない。
そう見えているだけの現象に興味を抱き、食べると表現する。
この表現を生みだした人間の古くからの感性に感謝。

カーテンを開けて空を見てみる。
雲が厚く月は見えない。
それでもお構いなしに月食は起こる。
人間の為に見せるショーではないのだと実感して少し寂しい。