6月は、帰還予定の13日が待ち遠しくそのことばかりだった。
はやぶさ君は見事に「おつかい出来たよ!」と、帰ってきた。
けな気だなぁ。
よかったなぁ。
じんわりと心の奥の方に温かいものが湧きあがってきた。
興奮より安堵感と深いねぎらいの気持ちがあった。

早くそのことを書きたいと思っていた。
けれど、とても個人的な理由で出来なかった。
パソコンが入院していた。
突然ファンエラーが発生し、熱暴走を起こして倒れる。
そのまま使い続けるとダメージが拡大するので緊急入院させた。
作品を書くにあたって自分のパソコンでなくても書けるはず。
書けるはずだけれど、その作品はぎこちないものになる気がする。
パソコンはツール以上の何かなのだと思う。

これらのことが刺激になった。
以前からチラチラと浮かんでくる考えに焦点を絞る。
どこまで物は物なんだろう?
はやぶさ君は小惑星探査機。
自分のパソコンはパソコン。
「機械=物」という、ただそれだけだろうか?
もっと大括りにして、人以外は物だろうか?
あるいは逆に、人は物にはならないだろうか?

擬人化。
簡単に使われるけれども、人の様に扱うのは、人を優位に見ている。
物を人と同類のものとみなして親近感を表現する。
たしかに、「製造物」は人によって生みだされているので劣位かもしれない。
ところが、見方を変えれば、人では出来ない事の多くを任されている。
能力で見れば生みだされたものの方がはるかに優れている。
これをして、優れたものを生み出せる人がやはり優れているとも言えるが…。
時としてこの考えを超越することがある様に思えてくる。

愛着という感覚。
物が物の枠を超えてくる。
固有の存在になってくる。
意思の疎通の図れないすべてのもの-無機物も動植物も-との関係。
ペットは何を飼っているにしてもその動物は単に動物でしかないのか?
名前を付け、共に過ごす時間を経て、死別する。
ペットロス症候群。
名前を付けた時点で、家族の一員になった時点で、その動物は仲間。
その仲間を失った悲しみ、喪失感は何にも替えがたいのだろう。
愛着はきっと、共有する時間の長さによって深くなる。
鎖につないで番犬として飼っているのは、どうだろう?
仕事の報酬としてエサを与えているのは、どうだろう?

ところで、気になる言葉がある。
物より思い出。
ふむ。
物<思い出。
書き換えると、「ん?」と、違和感が増す。
思い出は記憶であり、形がないから尊いということだろうか?
では、次の文章ではどうか。
物との思い出。
形あるものと築いた形なきものはどうするのだろう?
物≦思い出。
妥当なのはここいらへんだろうか。
では、形がないから尊いとした上で記憶を記録するのはどうだろう?
記憶を書き記した手記は「物」になる。
これを以って、比べる事にあまり意味はないと思えてくる。
そもそも、記憶は何かしらの「形」で脳内に保管されているのではないか?
脳内にスペースを有するならば、少なくとも無ではないはずだから。

壊れぬ物などありゃしない。
これを想う時、全くその通りだと思う。
この場合の「物」には「人」も含まれる。
物体としての人間は物なのであり、有機的統合体として考えられる。
長年使っていれば体のあちこちが痛みだすのも無理からぬこと。
経年劣化として老化を捉えれば、割合すんなり受け入れられる。
それでもその自然な流れに反発することで若々しく有ろうとすることも可能。
穏やかな老化を目指すことで健やかな老後を実践できると考えている。

人も物に成り得るのだし、物も擬人化や愛着によって物以上になる。
人が中心的役割を一身に背負って世界を回さなくてもいい。
自然は自然に自然を取り戻していこうとするのだろうし。
そこで行われるのが自然淘汰なのだと思うし、それを経てなお残った「何か」が自然と共に有り続けられるのだとも思う。
科学技術の結晶が「奇跡の帰還」を果たすのだから。