想っていることが多くても、まとまらないことが多くある。
まとまりを持たせるのは集約することだろうから、関連を探っていく。
取捨選択して残ったもので構成する。
文字を使って構成されたものが形になれば文章として表れる。

大まかに以上の様な流れで作品を書いているのだと気付く。
まとまらないのは取捨選択が出来ないでいるのだと感じる。
書くことに限らず、創作はエネルギーの消費が激しい。
肉体疲労を感じている時や気疲れしている時に意欲は低下する。
形にするということは、状況が許して初めて形になる可能性を生むのかも。
こんなことをぼんやりと想う。

前回の公開から間が空いた。
その間も形になる要素はいくつも取り入れていたはずだった。
例えば、樹齢800年の大銀杏が倒れてしまった衝撃。
自然に生き、人の世を長く見続けてきた樹が強風で倒れる。
800年の時の流れの中には、きっと猛烈な強風は幾度もあったろう。
それらを乗り越えてきたにも関わらず、今回倒れた。
そこに必然性を見出そうとしてもナンセンスだと思う。
どれ程生きれば朽ちて行くのかを事前に知らないのは人も樹も同じだから。

他にも生活の中から感じることはあった。
けれど、それを形にすることに意欲が湧かない状況だったのだと思う。
あまりにさもないことの様に感じて、あえて形にする必要性を感じなかった。
このことを客観的に今日書いてみるのは挑戦だと信じる。
発憤したい衝動に駆られて文章を書きたい気持ちを抑えられない。
楽ではないかもしれないけれど、自分を見つめ自分を解放するのは重要。

このところ気になっていたのは清濁について。
特に、言葉の清濁。
擬音語や擬声語等のオノマトペの楽しさ。
似通っている言葉の表す意味の遠さに楽しさを覚える。

例えば、しっとりとじっとり。
しっとりは朝露に濡れて潤いを帯びている印象を受ける。
じっとりは湿度が高く服が汗でまとわりつく様な不快な印象を受ける。
他にも、がばがばとがぼがぼ。
どちらも大量の水の音だったり、お金が大量に入ってくることだったり。
これを濁らずに表現するのは難しいと感じる。
また違った例もある。
清流はさらさらいくけれど、大雨の時は土砂が混ざりざらざらする。

「清濁併せ呑む」の言葉に行き着く。
度量が大きいことの喩えだけれど、偏りなく受け入れる事だと解釈する。
バランスがいかに重要か。
それをこのところずっと考えていたのだと、この言葉に行き着いて感じた。
バランスの取り方が乱れていたから、取捨選択できず、形に出来ずにいた。
なるほど、日常と遠い言葉が状況を教えてくれることもあるのだと驚く。
そして、言葉の持つ力と魅力に改めて引き込まれる。
形にすることは、だからこそ止められない。