見たり、聞いたり、したり、されたりで感じた事。
看護と介護は似ている所もあるけれど、やはり、別物の様な気がする。
まず、字が違う。
これはその行為の違いを表すために違っているのだと思う。
nuraseやcureの看護。
nuraseやcareの介護。
ナースでは同じに書いて、看護する。介護するとなる。
キュアは治療や手当をする。
ケアは世話。医療的・心理的援助を含むサービス。

どちらも対象に対して寄り添う姿で共通するのだと感じる。
その意味でナースを共通して持つ。
これを漢字で表すのが「護」なのだろう。
護るは防衛の意味を含む。
病気やけがで弱っている人の手当てをして護る看護。
老化という不可避な現象により機能低下する人の世話をして護る介護。

究極的な見方をすると介護に晴れやかさは薄い様に思う。
と言うのも、介護は後退する日常に寄り添う。
劇的に回復が望める種類の現象ではない。
出来ていた事が出来なくなる。
それをサポートする。
下支えすることでその人のその人らしさを保つ事に寄り添う。

一方、看護の方はというと明るさが多少なりともある。
入院患者が快復し退院する場面に接する。
症状が緩和し元気を取り戻す姿を見る事もあるだろう。
無論、患者を看取る事もあるだろうけれど。

対象が患者の場合、患っている状態が消えれば看護の必要が無い。
機能低下を対象とする場合、くいとめる為の継続的な介護が必要。
この部分が最も異なるのだと思えてくる。


医療分野でも福祉分野でも人材不足が言われる。
求人はあるけれど就職希望者が少ない。
雇用対策の為にこの分野が注目されるけれど人員配置だけでは仕方ない。
密接な信頼関係を築く事が出来なければ、体を委ねられない。
出来ていた事が出来なくなるというイライラは想像に難くない。
その不満を受け止めるのも仕事の一環だと知っている。
その上でその現場に飛び込んで行くのは勇気が必要だろう。

やりがいはあるに違いない。
出来ないとあきらめていた事が少し出来るようになった瞬間。
世話をした事に対して、労をねぎらい「ありがとう」を戴いた瞬間。
やったね!と、一緒に喜び合える瞬間。
それを受け取れるまでに耐えるべき困難が多い。
ここが問題なのかなぁと思う。

看護や介護をする方にやる気があっても、受ける方に意欲がないといけない。
それを引っ張り上げるのも容易くはない。
いかに心で向き合うか。寄り添えるか。
この問題には向き不向きが大きく関わっている。
単純に足りないから入れて埋めればいいのではなく、やれる人にとってやりやすい様にサポートするシステムこそ求められるべきだと思う。