裁判員裁判が初めて行われた。
これは、歴史的な転換を意味するものだと思う。
「司法を国民にとってより身近なものとする」を目標として行われた司法制度改革の集大成。
一般国民が重大事件を起こした他の国民を裁く時代に突入した。


裁判員裁判に関する報道を受けて思うところは余りにも多い。
モデルケースとなることを強く意識し、その配慮が随所に見えた様にも思う。

まずは、最も印象を強く受けたのは「質問」をめぐって。
意見を言うことは心証形成の上で重要な職務であり、かつ、それは公平誠実に職務に当たらねばならないと九条によって規定された義務でもある。
しかし、報道はそれを積極的に取り上げすぎたのではなかったか。
ある種強迫的なものを感じた。
一体いつ、どんな形で職務を遂行するのか。
「まだ。まだ出ませんでした」の報道に恐怖感を覚え萎縮する思いがした。

次に、余計な憶測を呼びそうな形で進行され報道されたと感じた。
裁判官が円滑な進行をし、難解な点は説明をする。
進行を中断し密室状態で裁判員に説明するのではなく、法廷で説明をすれば傍聴人も裁判官の公平な立場での法的説明を聞く機会を得られた様に思う。
傍聴人達はいずれ裁判員になるかもしれない可能性を持っているのだから。
それをせずに裁判員だけを集めて説明した事は、裁判員が職務をまっとう出来ずにいることに対し、背中を押す様な何かしら(例えば、この様な質問でもかまいませんので質問して下さい等)があったのでは?と、勘ぐってしまう。

さらに、重要な事ではあるけれど検察の念押しも印象に残る
「これが重要な証拠物件ですので、裁判員の方々はよく見てください」と、凶器であるナイフをしっかり見る様に促した。
被害者の現場での様子についても同様であった。

最後に、被害者遺族の意見陳述。
検察の求刑16年に対してさらに重い20年を求めた。
母親が殺害されているのに、16年では足らないから20年でと単純にそうなったのだろうか?
奪われた命に対する感情の様な複雑な物を、明確な年数を提示して解決できるものではないと常々思っているので、意外であったし違和感を覚えた。


総括すると、初めてにしやすい事件を初めてらしく終わらせたかったのかなぁ。と、漠然とした仕立て上げられ感を抱いた。
裁判員の特定は出来ないことになっている。
けれど、今回非常に多くの視線を感じながら裁判員をしたことだろうと感じた。
その重圧を真っ向から受けつつ、自分の意見を言う事は非常な勇気が必要な事であったろうと思う。
無論、これから先試行錯誤が重ねられて改善されていくはず。
その中には残忍極まる事件も含まれることになる。
どの事件を担当することになるかは決められない。
一般国民がどの事件を担当することになったとしても、裁判員として司法参加出来て良い経験になった。
そう思える様な裁判終了後のケアの目に見える形での整備が必要だと考える。

今回の裁判で光明が差したとすれば、「何故娘さんの形見であるというナイフを犯行に使ったのですか?台所には包丁があるはずで、それを使わなかったのはどうしてですか?」と、裁判員が質問した事に対する弁護人の言葉。
「この質問は法律家では出来ない事だと思った。凶器は証拠であり何故それでなければなかったのかという点までは気付かない」旨の発言をしている。
国民感覚が少し裁判に組み込まれたのかもしれない。
そのことが、今までの裁判では置き去りにされていた事件の真相の一端を突く事になったのだとすれば、裁判員裁判の意義を見いだせるかもしれない。

とにかくまだ初回。
そして、初回を終えた今、連続が始まったのだ。
新しい裁判。
何をどの様に裁き、何を決定していくのか。
課題は多いながらも、初回は「無難に」幕を閉じた。