どうしようもなく考えがまとまらないけれど、でも、どうしても書いておかなければならない様な気がしてもいて。
このじれったさに嫌気を覚える程に悶々としている。
そして、とにもかくにも書いてみようと決めた。

正しいかどうかはまったくわからない。
いいとかわるいとかで割り切れるものでもない。
その上、割り切れたら何だって言うの?と、掴みどころもない。
そんな言葉達に想いを寄せてみる。

宿命・運命・使命。

宗教観とか言う様な難しい事があるだろうと思う。
それよりももっと根深く無意識のうちにある先入観がネックかもしれない。
そういうのを抜きにして考えるのは、ほぼ不可能な気がする。
「ほぼ不可能な気がする」原因に真っ先に答えたい。
心(気持ち)の最終的な安息の意味を含んで使われる事を感じ取るから。


それぞれを簡単に書くと次の通り。
命が宿る。
命の運び方。
命の使い方。
これ以上ない程簡単に書いた。
そして、これが今回の結論だとも言える。

宿命って何だろう?
運命との違いって何だろう?
使命って自発的?それとも、使役的?
こんなことを何とはなしに考えている。
そうするうちにひどく理不尽だなぁと思えてくる。

「どうしてこんな事になってしまったの!?」
「何故、志半ばで命を奪われないといけなかったの!?」
こんな風な言葉を報道番組で耳にする機会が増えている。
こういう言葉を沢山聞かなければならない世の中である事に、何より先に怖さと悲しさと覚える。
これらの言葉に答えるのに適当な言葉があるだろうか?
無いのはわかっていて、言わずにおられずに言っているのだろう。
そうでもしないと、やるせなさとか、憤りとかのやり場がないから。
日が経つにつれ、自身の喪失感とか、奪われた人生とかに目が向いて行く。
そうこうして何となく落ち着く先が、「運命だったんだなぁ」とか、「そういう宿命だったのだろうなぁ」となってしまうのだとしたら、哀しい。
しかし、それを責める事も真に共感することも出来ない。
受け止めた、受け入れた、その人はそれを何とか持てる程度の「コト」にして、納得は出来ないにしろ抱えて生きて行くことになるのだから。

そう思う一方で、違う考えも浮かんでくる。
命を奪われる様なそんな事件に理由付けをしてしまうのは怖い事だ、と。
運命や宿命なんて曖昧なもので、誰かに一方的に不用意に命を奪われていいはずがないし、苦難の人生が待ち受けているとわかっていながら、その筋道に沿って歩まされるのなら、何が良くて生きて行こうと思うのか。
理由なんか無い。
本当は結果しかない。
だけども、それでは余りに味気なく寂しいから、意味を見出したいという切なる願いを「運命」とか「宿命」とかいう不合理で、不可侵的な言葉で言い表すとしたら懸命な心の救済かもしれない。


また、まったく別の見方をするとそれはそれとして見えてくる。
宿命は、命が宿っている。
この単純な事が発端じゃないのかなぁと。
ヒトが「その人」として生まれてくるのにまず理由がつかないと思える。
卵子1個に対して何億もの精子の中の1つが受精に成功して「その人」になるのに、何故その1個が成功したのか。
この現象に理由があるとは思えない。
宿命はだから、命が宿る事それ自体がステキに凄い事の意味でいいと思う。

運命は、命の運び方。
命がある事は生である状態だと思う。
特に何か偉業を成し遂げる様に誰もが生まれついているわけではないだろう。
0歳でいきなり多国語を話したり、難解な数式を解いたりするのであれば、その人は一種特別な存在かもしれないけれど。
才ある人であっても、その才を伸ばす努力をして他の人では到達し得ない境地に近付いて行く。
色々とやってみて、好きな事が見つかって長い事続けられている。
そんな状態が命を運んでいるのではないかなと思う。
自分に合うことを探してる間も、それもまた、命を運んでいる。
最終的に生の終焉を迎えるまで、命は運び続けられるのではないだろうか。

使命は、命の使い方。
忠実に決まり事や職務や命令やらを成し遂げる事ではないと思う。
自発的な命の使い方があってもいいと思うから。
命は持ち主に属している。
もちろん、その命を任務の為に預ける人もいるだろうし、そういう人を誇り高く素晴らしい人だと思う。
誰かを助ける為に自分の命を危険にさらして物事を成し遂げるのは、生半可で出来る事ではないだろう。
そればかりが命の使い方ではないと思う。
何に一生懸命になるのか。
それを決める1つ1つの決断が生をつなげる。
何も決めなければ、何も進まない。
決めても行動しなければ、やはり、進まない。
進むものかと決めるのも、危ないけれど進むと決めるのも命を使ってする事。

宿命から使命に。
使命の連続が運命に。
運命の終着が命尽きる生の終焉の宿命へと返る。
こんな命を巡る物語も1つの有様じゃないかと想う。