予想や予測は、あくまでこれまでをこれからに当てはめてみるに過ぎない。
予め想像しておく、予め推測しておく。
その当てが外れて憤慨するのは、筋違いなことだろう。
逆に、的を射ていたと判明してもそれが偉い事でもない。
勘が冴えて当たっただけの事かも知れない。
未来は決まっていない。
必ず当たるギャンブルは最早ギャンブルではない。

さて、思いがけずに得る事というのがある。
いい事ばかりではない。
何でこういう事になるんだろう…。と、思うこと度々。
なんとも難儀な話である。
ところが、結果を見比べてみると存外似たようなものだったりする。
要は捉え方次第。

それぞれ例を挙げてみる。
お散歩している時ふと空を見上げる。
以前感じた、空の高みへどこまでも落ちてしまいそうな感覚に再び出会う。
雨上がりの午後に虹を見つけその色に見とれる。
ふっと視線を投げかけた先に四葉のクローバーを見つける。
文字にすると何てことはない。
しかし、他の事では補えない思いがけない出合いだから嬉しい。
そのかけがえの無さが「ちょっと言葉にならない位」嬉しい。

写真を撮ろうと意気込んで行った公園の花がもう散っていた。
自分より適任者がいると思っているのに自分がする事になった。
あんまりいい題材じゃなかったかなぁ…と、思っていたのに意外な反応が。
メモ類を整理していたら、持病初診時の薬の処方の説明書を見つけた。
個人的に残念感があるけれど、それだけではない。
月日が経っていることや、他者の存在(感性の違い)を再確認することや、自分自身の変化にも気付かされる。

積極的に肯定する。
意識することで何気なく過ぎる日常に意味を見出すこともできる。
4年ほど前、突如として出なくなった声はすっかり戻ってきた。
気分の落ち込みは、生きてれば多かれ少なかれある。と、思える様になった。

何がきっかけで今の自分になったのかを説明することはできない。
意図的にした事も、思いがけず得た事も、どれも自分の解釈で取り込んだ。
こういう1つ1つが自分を構成する要素なのだと思う。
なかなか腑に落ちずにわだかまっている事も、思いがけない一言や出来事でスーッと溶解する事がある。
全部が全部わかった上で動いているのではつまらない。

偶然は使いたくない。
対義語に必然があるから。
そうなるべくしてなったと受け入れられる程の余裕は、まだない。
だから必然は考えたくない。

思いがけず。
あえてこの言葉で捉えたい。
この降って湧いた様なそれぞれの事柄が人にとって面白い要素かもしれない。