カテゴリを読書考とした。
これは正確な選択でない。
映画鑑賞レビューを書こうとするから。
しかし、どうだろう?
題名を知っている。
微々たるものだが少し原作の知識を持っている。
事前に何も情報を得ずに見た映画はかつて1度もない。
この意味において、映画は私にとって予想とのギャップである。
外れても楽しめる。
当たっても楽しめる。
ただ、予想をつける作品との出会いが少ない。
これを主な理由として映画の鑑賞法がわからない。
つまるところ鑑賞のセンスがないのだと思う。
ともあれ、作品を見た。
事前に知っているのは、題名と原作の出だしとあらすじ。
歴史的事実としてチェコ民主化運動の際用いられたヘイ・ジュード。
他の情報(知識)はさほどながら、題名に期待が大きく膨らんだ。
『存在の耐えられない軽さ』
これだけで見てみたいと思った。
原作の出だしはパンチが効いている。
ニーチェの永劫回帰という考え方はニーチェ以外の哲学者を困惑させた。
これで小説が始まるとは思えず、とても読み進められない自信がある。
だが、幸か不幸か原作を読んだことがない。
DVDで映画を見ただけ。
しかも、拝借した。
作品の批評などできない。
どこまでも、予想とのギャップを語る。
予想段階で当然ながら「存在」の意味するところが気になった。
『存在の耐えられない軽さ』が題名である。
耐えられないほど軽い存在は「何か?」が重要だった。
事前に恋愛物であることを知っていてそう思った。
愛の価値、相手の価値、自分のあり方としての価値...。
価値はきっと「重み」と言い換えられそれが「存在」だろう。
その程度にしか予想できなかった。
薄っぺらい予想である。
鑑賞後に思うところは複雑である。
主人公トマシュは脳外科医。
トマシュの旧知の画家のサビーナ。
手術の出張先で知り合ったウェイトレスのテレーザ。
箇条書きでとにかく書いてみる。
・帽子に込められたハットとハート。
・不意打ちだったマン・レイとリー・ミラー。
・ヘイ・ジュードは、なるほど面白い取り入れ方。
・切り取る生は横顔に。美は全体を含む部分に。
・土地と国家(祖国)、居場所と生き(行き)場所。
・言う(言わない)、感じる(感じない)、伝える(伝わる)。
・個と他、平等・当分(分散・分担)と独占、自由
・理解とはなんぞや。
・1人の人間のアイデンティティがその人そのものに無い可能性。
画家サビーナは帽子を大切にしている。
祖父の祖父のまた祖父の…大昔からある帽子。
その帽子を愛している自分を愛するサビーナの核心。
帽子(ハット)と永劫回帰の心(ハート)にみた。
・至極個人的嗅覚ながら、モノクロ写真における美の挑発。
マン・レイとリー・ミラーの作品によって、美の再発見を意識づける。
組んだむき出しの女性の脚。
美脚の美は形であり、体は容であり、脚という型である。
誰のものであってもかまわないが、誰かにしかないか、誰にもない。
美は形としてあり永遠の元型である。
・ヘイ・ジュードは、作中、ソ連の侵攻の場面で流れる。
歴史的事実と重ね合わせているのだろう。
が、その歴史的事実の全体像を詳しく知らなかった。
マルタ版のジュードは女性であるとのこと。
ヘイ・ジュードのフルコーラスが流れるのではない。
この場面ではテレーザのことを歌っているのか。
テレーザが何度もシャッターを切っている。
切り出された多くが横顔であり、また、犠牲者の姿である。
何かをしなければ。
この想いでシャッターを切り、トマシュへの想いも見つめる。
応援ソングとしての演出効果は大きい。
・写真力ではなく、カメラ力。
レンズ越しの世界はきっと、2色の濃淡で表現しきれる裏と表。
人が横を向いた時、人はその視線の先に意識的に集中する。
事はとっさに(ふいに)横を向いた時に起こるのかもしれない。
・全体像も全体からすると部分であり、全体における部分は濃縮である。
みんな同じであることが普通だから美しくもある。
総体、まとまりとしての構成美。
クローズアップして成形美を再発見するのも美。
個体に宿る構成美としてのサボテン。
個体に宿る成形美としての女体。
存在するのは素材であり、そこにある美は1つではない。
と、美に関して、今読んでいる『「かたち」の哲学』から解釈してみる。
国家や思想や感情は色々書いても仕方ない。
ただし、居場所・生き場所は重要である。
人が存在するということは、どこかに必ず間借りしなければならない。
物質としてあるのだから、居場所の確保はやむを得ない。
生き場所では生活がある。
明確にすることがありそれが生活に結びついていれば充分。
多くを考える必要もなく生きるための行動を続ける。
自然の一部に還るまで自然の中に返る。
やるべきことがあるのは他のことからは自由なのだ。
ところで、ここまで「存在」の素材は見えた。
では、軽さとは何だったのか。
1つの結論として、「存在」への軽さではなく「存在」からの身軽さ。
ある1つにとっての1存在の重みは個々に異なる。
例えば、大きな愛と深い愛とを比べることはできない。
また、小さく浅い愛を否定することもできない。
こちらの愛は善意として顕れ得るものかもしれないのだから。
これは正確な選択でない。
映画鑑賞レビューを書こうとするから。
しかし、どうだろう?
題名を知っている。
微々たるものだが少し原作の知識を持っている。
事前に何も情報を得ずに見た映画はかつて1度もない。
この意味において、映画は私にとって予想とのギャップである。
外れても楽しめる。
当たっても楽しめる。
ただ、予想をつける作品との出会いが少ない。
これを主な理由として映画の鑑賞法がわからない。
つまるところ鑑賞のセンスがないのだと思う。
ともあれ、作品を見た。
事前に知っているのは、題名と原作の出だしとあらすじ。
歴史的事実としてチェコ民主化運動の際用いられたヘイ・ジュード。
他の情報(知識)はさほどながら、題名に期待が大きく膨らんだ。
『存在の耐えられない軽さ』
これだけで見てみたいと思った。
原作の出だしはパンチが効いている。
ニーチェの永劫回帰という考え方はニーチェ以外の哲学者を困惑させた。
これで小説が始まるとは思えず、とても読み進められない自信がある。
だが、幸か不幸か原作を読んだことがない。
DVDで映画を見ただけ。
しかも、拝借した。
作品の批評などできない。
どこまでも、予想とのギャップを語る。
予想段階で当然ながら「存在」の意味するところが気になった。
『存在の耐えられない軽さ』が題名である。
耐えられないほど軽い存在は「何か?」が重要だった。
事前に恋愛物であることを知っていてそう思った。
愛の価値、相手の価値、自分のあり方としての価値...。
価値はきっと「重み」と言い換えられそれが「存在」だろう。
その程度にしか予想できなかった。
薄っぺらい予想である。
鑑賞後に思うところは複雑である。
主人公トマシュは脳外科医。
トマシュの旧知の画家のサビーナ。
手術の出張先で知り合ったウェイトレスのテレーザ。
箇条書きでとにかく書いてみる。
・帽子に込められたハットとハート。
・不意打ちだったマン・レイとリー・ミラー。
・ヘイ・ジュードは、なるほど面白い取り入れ方。
・切り取る生は横顔に。美は全体を含む部分に。
・土地と国家(祖国)、居場所と生き(行き)場所。
・言う(言わない)、感じる(感じない)、伝える(伝わる)。
・個と他、平等・当分(分散・分担)と独占、自由
・理解とはなんぞや。
・1人の人間のアイデンティティがその人そのものに無い可能性。
画家サビーナは帽子を大切にしている。
祖父の祖父のまた祖父の…大昔からある帽子。
その帽子を愛している自分を愛するサビーナの核心。
帽子(ハット)と永劫回帰の心(ハート)にみた。
・至極個人的嗅覚ながら、モノクロ写真における美の挑発。
マン・レイとリー・ミラーの作品によって、美の再発見を意識づける。
組んだむき出しの女性の脚。
美脚の美は形であり、体は容であり、脚という型である。
誰のものであってもかまわないが、誰かにしかないか、誰にもない。
美は形としてあり永遠の元型である。
・ヘイ・ジュードは、作中、ソ連の侵攻の場面で流れる。
歴史的事実と重ね合わせているのだろう。
が、その歴史的事実の全体像を詳しく知らなかった。
マルタ版のジュードは女性であるとのこと。
ヘイ・ジュードのフルコーラスが流れるのではない。
この場面ではテレーザのことを歌っているのか。
テレーザが何度もシャッターを切っている。
切り出された多くが横顔であり、また、犠牲者の姿である。
何かをしなければ。
この想いでシャッターを切り、トマシュへの想いも見つめる。
応援ソングとしての演出効果は大きい。
・写真力ではなく、カメラ力。
レンズ越しの世界はきっと、2色の濃淡で表現しきれる裏と表。
人が横を向いた時、人はその視線の先に意識的に集中する。
事はとっさに(ふいに)横を向いた時に起こるのかもしれない。
・全体像も全体からすると部分であり、全体における部分は濃縮である。
みんな同じであることが普通だから美しくもある。
総体、まとまりとしての構成美。
クローズアップして成形美を再発見するのも美。
個体に宿る構成美としてのサボテン。
個体に宿る成形美としての女体。
存在するのは素材であり、そこにある美は1つではない。
と、美に関して、今読んでいる『「かたち」の哲学』から解釈してみる。
国家や思想や感情は色々書いても仕方ない。
ただし、居場所・生き場所は重要である。
人が存在するということは、どこかに必ず間借りしなければならない。
物質としてあるのだから、居場所の確保はやむを得ない。
生き場所では生活がある。
明確にすることがありそれが生活に結びついていれば充分。
多くを考える必要もなく生きるための行動を続ける。
自然の一部に還るまで自然の中に返る。
やるべきことがあるのは他のことからは自由なのだ。
ところで、ここまで「存在」の素材は見えた。
では、軽さとは何だったのか。
1つの結論として、「存在」への軽さではなく「存在」からの身軽さ。
ある1つにとっての1存在の重みは個々に異なる。
例えば、大きな愛と深い愛とを比べることはできない。
また、小さく浅い愛を否定することもできない。
こちらの愛は善意として顕れ得るものかもしれないのだから。
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