2012年01月21日

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ある人は痛みについてこう語ったそうだ。
「歯が痛いとき、その痛みをじっと見ている自分がいる」
聞いた話を書いた文章を読んで得た情報なので詳細はわからない。
けれども、今回ちょっとこの発言に寄り添える気がした。

突然、前触れもなしに左手首に痛みを覚えた。
ところが、この痛みは今となって考えるに痛みだったのだろうか。
痛みに似た、しかし、何かしら違う感覚だったように思える。
簡単に違和感と言えばその通りだが、痛みに似た何か。
痛みはいつから痛みになるのか。

1つ、痛みについての”あるある”を。
誰しも経験があるだろう足の小指を物の角にぶつける原因。
「固有感覚という無意識下での体性感覚で人は自分の体をなんとなく意識して」いる。けれど「それは必ずしも正しくはなくて、そのズレで端っこはいろいろとぶつけたりしやすい」と、NHK総合『解体新ショー』で回答されたという。
※固有感覚:体の様々な部位の位置する場所を感じているという"無意識"。
※体性感覚:感覚器が外からはっきり見えず、皮膚・筋肉・腱・関節・内臓の壁そのものに含まれる。
つまり、体の端にある足の小指は、脳も場所が曖昧にしか把握できないからぶつける。

さて、手首の痛みはどうやら体性感覚の領域だろう。
手首という関節領域。そして、痛み。
整形外科に掛かった。
手首が痛い原因の特定のためレントゲン撮影。
骨折やヒビ等の疑いが否定された。
腫れているし関節炎ということだった。
内科に掛かった。
赤く腫れているが、発熱・倦怠感等の全身症状がなく感染性関節炎は否定。
左手首だからという理由かはわからないが血栓性静脈炎も否定。
繰り返すようなら血栓性静脈炎かもしれないから厄介。
ともあれ、消炎鎮痛剤と患部固定で様子を見ることに。

ふむ。
診察の結果はどうあれ対症療法で痛みが和らいだので安心ではある。
わからなくても痛い。
わかっても痛い。
となると、とにかく痛くないようになればええねん。と、思う他ない。
痛い時問題なのは、原因がわかったとて痛みが消えるわけではないこと。
逆に言えば、原因がわからなくとも痛みが消えれば問題は消えること。

ここで、冒頭の痛みをじっと見つめる自分の話。
今回の痛みで最高潮だったのが午前3時過ぎ。
動かさなくても痛い。
手首で脈動を感じ、ドクンドクンと痛みが襲う。
動かしても動かさなくても痛い。
汗が噴き出しやたらと熱く感じる。
そんな中、ふいに冷静になった。
「この痛い部分を無くすか、痛みを感じる自分を無くすかのせめぎ合いだ」
結論として、お尻の下に手首を潜り込ませることで妥協した。
「見えんようにしたし、あとは痛いと思わないことにしたらええねん。寝よ」
よくわからないが関西弁で自分に決着をつけた。

痛みは消失が望ましい。
痛みを見つめて思いついたのが痛みの根本から無くしてしまう。
その為には、患部を無くすか、痛みを感じる自分をも無くすか。
痛みに苦しむ時、自分はきっと客体で痛みが主体性を持っている。
痛みは、痛みを発動すべく行動するから痛いのだろう。
その客体として痛みを感じる自分がいる。
と言うのも、普段痛みを感じないのは痛みの原因がないからではないか。
痛いのが通常であれば、自分が痛みの主体で痛くしているのかもしれない。
けれどもそうではない。
もちろん慢性痛はあろうが、原因があって痛いのなら通常とは違う。
この場合、処世術の様に自分を痛みの客体として痛みを受容し日常化する。
痛みに対して主体性を持った自分の行動はでき得るだろう。
何より痛みの原因を喚起させないことに尽きる。

痛みは何故あんなにも強烈な痛みなのか。
瞬間的な痛みの強さは上に記した足の小指が物語る。
この場合、脳があまりよく把握できていないから警鐘を鳴らすのだろう。
そう思ってもあんまりな痛みではないか。
言うなれば、威嚇射撃にもかかわらず命中している様なもの。
しかも機関部に大打撃と言っていい。
「イツゥゥゥー」っと、声にならない声を出してうずくまり涙目。
やり場のない怒りを覚えて拳を固めるも力なく下ろすしかない。
少しの間をおき「なんでこんなに痛いんだ」

きっと、足の小指は寂しがり屋なんだと思ってみる。
場所もしっかり把握されない。
足の小指のおかげでと感謝されることも滅多になさそう。
感謝のされようからすると、手の指はきっと花形に違いない。
それに比べて足の小指の大舞台はどうだ。
ぶつけたときに思い出されるくらいしか思い浮かばない。
せめてこの時とばかりに張り切るも空回っている。
こんな風に痛みを見つめると少しは笑い話にもなる。
痛いけど。

(22:36)

2011年12月27日

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例えば、消しゴムは使いきれるか?との問題提起をする。
この話題に乗れる人と乗れない人がいる。
どちらに対しても良し悪しは決められない。
しかしながら、乗れる人を好ましく思う。
この時点で「好ましい」という色眼鏡がかかっている。
もし「つまらん奴」と思ったとしても言わなければいい。
乗れる相手でなくても、こう言われたらどうだろう?
「何か、消しゴムって気がつくとどっか行ってるわ」
なるほど、この意味で私も使いきった経験がない。
実生活上でのある種の答えが出た。
だが、この意味での問いかけではない。
話が噛み合わなくとも会話が成立する。
ところが、こう来るとどうにもならない。
「消しゴムが使いきれるか?だから何なの?」

他の例として、絵画展に出かけた場合を考える。
目玉の作品というのが用意されている。
下世話な話、相当高価である。
ここで色眼鏡がかかっている。
相当の絵を期待するけれど、基準が貨幣である時点でそもそも不安定。
1万円が1万円の価値を持ち続けていればいいが、そうではない。
「今の金額に換算して」とのフレーズを思い出すとわかりやすい。
それは置くとして、市場価値が絶対的指標でないことを忘れがち。
市場価値の高い物が芸術的価値として高いのではない。
芸術的価値は、「芸術に対して」価値があること。
芸術に対して価値があることは「市場価値としても」価値がある。
第一義的には、芸術が芸術に貢献したことの価値だと思う。
芸術的価値を英訳すると2通り出る。
・artistic merit  メリットは称賛に値する価値
・artistic value ヴァリューは実際的な有用性・重要性からみた価値,値打ち
美術品を見に行くのか芸術品を見に行くのか混同することがある。
どちらかとして割り切れるかどうか難しい。
美術品であれば、「特別な絵だからきっと高価だろう」でいい。
芸術品であれば、「特別な扱いを受けるのも納得」がいいのかもしれない。
高価であると言われなくとも、「特別」であると知らされる(感じさせられる)。
その特別が何に根差すのかを確かめに見に行くのだから。

さて、色眼鏡がかかることは良いことか悪いことか。
それ以前に、色眼鏡とは何か。
その後、色眼鏡は何故かかるのか。
色眼鏡がかかるのは良いことか悪いことかへと順を追いたい。

色眼鏡は、先入観のような概念、あるいは、サングラス。
必要だから用いることが多いのだろう。
先入観は予備知識を持つことで理解を促進するかもしれない。
しかしながら、知識などに捉われると偏見につながるかもしれない。
このことをサングラスが象徴的に物語るのではないか。
強い陽射しを防ぐけれども視界が悪くなる。

色眼鏡がかかるのは何故だろう。
かけたからと言えばそれまでだが、では、何故かけたのか。
円滑に進めたい。
対象への理解の補助的作用としてかける。
そのかけ方がまずいと問題が発生するのではないか。
理解を妨げるのは、予備知識を吟味しないゆえか。
鵜呑みにすると判断基準が自身の内側に根付かない。
よって、付随的な一般化された基準に頼ることになる。

結局のところ色眼鏡は良いのか悪いのか。
単純化すると、良い時も悪い時もあるし、関係ない時もある。
対象物に対して直感的に「いい!」と思う時や「好き」と思う時、関係ない。
そして、それ以上に明確な評価を下せないだろう。
精査し、分析し、芸術としてその成り立ちを解明するのでなければ。
好きな絵でないけれど技法などが素晴らしく芸術的価値は高い。
このような価値判断をする評価者は専門家でないと難しそうに思う。
だがどうだろう、専門家は芸術的価値が高いけれど嫌いな絵はないのか?
この疑問はそこに色眼鏡の存在を確かめなければ解決しなさそうだ。
そして、その対象たる専門家でない自分では確かめようがない。
ただ、「専門家なら」という色眼鏡をかけて思いを巡らせるだけである。

(00:06)

2011年12月21日

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わからないことがあまりにも数多くある。
この頃は、恥ずかしさを覚える以上に申し訳なく感じる程。
こんなだからなのだろうと納得させたことがある。
学士入試の失敗である。
結果が出たのは1月以上前。
2000字の小論文と面接試験だった。

小論文の設問は「リスク社会と科学技術の関係」について考えを述べよ。
正直、真剣に考えたことのないテーマだった。
リスク社会を定義することから始めて、1900字程度で書いた。
論理的に記述できたとは思うもののいい内容かどうかは不明。
尤も、小論文の出来栄えに関わらず面接で不合格となったのは確かだろう。

面接では真っ先に志望動機を問われた。
(ちなみに、福祉系大学の臨床心理専攻コースを受験)
学問したい旨を伝えたが反応は薄かった。
面接が進むにつれ残念な気持ちでいっぱいになっていった。

以下、Qが面接官Aを私の発言とする。
Q.年齢が高いけれども就職はどう考えていますか?
A.専門を活かした職場を希望します。病院でも施設でも。

Q.法学部卒なので単位認定が厳しい。2年で卒業は難しい。どうしますか?
A.もちろん2年で終わるように取り組みます。

Q.終わらない場合を訊いてます。3年かかったらどうしますか?
A.どうしてもそうならざるを得ないなら仕方がないです。でも、終わるように取り組みます。

Q.2年で終わらないと困ることでも?
A.できるだけ年限で終わらせたいと思うものだと思いますが…。別段の理由はないです。

Q.覚悟を持たないとだめです。3年かかった時と2年で終わらせる覚悟と。
とにかく卒業まで3年。年齢がさらに高くなる。就職は非常に厳しい。どうしますか?
A.はい。あの、すいません。大学は就職するためにあるのでしょうか?

Q.大学で勉強だけして後のことは考えていないと?
A.学問分野に興味を持って学びたいから受験するのではいけませんか?

Q.こちらも受け入れるからには責任がある。後の事を考えてもらわないと困る。
A.そうですか。ですが、学んで身に付けたものを活かす考えなのに現時点でわかるでしょうか?

Q.計画性をもった行動をとることも社会人として必要な事だよ。お勤めしていらっしゃいますね?
A.はい。縁あって仕事させていただいてます。

Q.今のご時世でね、縁あって仕事できてるならそちらを大事になさい。
A.え〜と、つまり、学びたい思いは受け入れられないということですか?

Q.そうは言っていません。そうそう、志願書に声が出なくなっと書いてある。どういうことです?
A.志望動機の1つです。心と体のつながりを考えさせられました。学びたいテーマでもあります。

Q.具体的には…?
A.腹に据えかねる事があって大声で反論しました。3日程全然寝られず声が出なくなっていました。

Q.ふむ。それで?
A.病院に通うようになってそれが4年くらいですか。段々と声が出るようになっていました。

Q.ふむ。それがきっかけで勉強したいと。
A.はい。それだけではないですが、強い動機にはなっています。

Q.なるほど。もしですよ、これから先、また声が出なくなったらどうしますか?
A.え?いや、どうしますかと言われても…。なんとも言えないです。

Q.色々支障があるでしょう?
A.そうですね…。そうならないようにこれまでの事を考えたり、専門知識を学びたいのですが…。

Q.そうですか。はい、結構です。
A.ありがとうございました…。

印象に残っていて忘れられない部分はこんなやりとり。
これは一体何だったんだろう?
試験日当日から今でも解決できずにいる思い。
ともあれ、大学が欲する人材でなかったのだと納得はしている。

歳はとるもんじゃないなとか、大学はもはや学問の場ではないのだなとか。
思ったことは多い。
そして、それらが全部寂しい思いにつながっている。
その結果として、1つの決意と1つの反骨精神の綯い交ぜを抱いている。
同じ大学の通信教育部で志望する学問をしよう。
あてつけの様だが学びたい気持ちに嘘はないし、面接官だった教授の講義に興味がある。
通信なら毎週顔を合わせるわけではない。
お互いにさほど嫌でもないだろう。

おしまいにこれは明記しておかなければならないだろう。
合否通知書にはこう書いてあった。
今回、遺憾ながら意に沿う結果をお伝えできませんでした。
この文面と後期学士入試の日程とが印刷されたB5用紙1枚。
これが学士入試のすべてだった。

通知書を見た時思わず呟いた言葉は忘れないだろう。
「もう一度受験して面接受けたら何か変わるんか?」

(00:00)