2014年09月24日

震災当日は金曜日だった。
今年の3.11は火曜日になった。
このことからも3年分時間が動いたのだと確認できる。
時間が動いた。
その変動は、経たのか、経ったのか、過ぎたのか。
いや、そもそも時間がはたして本当に動いたのか。
現在をもって終わったこととして済まされることがどれほどあるのか。
カレンダーや時計では追いきれない時間がある。
そういう世界に生きている人が少なからずいる。
これはどう捉えればいいのだろう。

時間の流れに意味が在るや否や。
必要十分な時間というのは何者にも定めはないだろう。
そして、何物にも定められないだろう。
懐かしい思い出になるのもそうだし、熟成期間にしてもそう。
「まぁ、頃合いを見て『そういうことにしよう』」とするだけだろう。
例えば、一途であることは執念深いことの言い換えかもしれない。
ここに見られるのは、ある時点を境に囚われた姿なのかもしれない。
仮に、経過がなければ得られないことがあったとする。
しかし、その結果として得られることが必ずしも必要で有るや否や。
もしかすると、ここにも言い換えが潜んでいるのではないか。

救いということ。
状況ということ。
平静を取り戻しつつある、あるいは、取り戻すために必要なこと。
渦中にあってはそれをそれとして受け止めることは難しい。
していたとすればその時点でその状況から救われているのだろう。
するとは作為である。
意思力の行使である。
慣性や惰性の結果生じたのなら、それは「していた」のではない。
「できていた」のだろう。あるいは、「やれていた」のかもしれない。
意思が介在せず事が済むこと。
このことを否定するつもりはない。
結果、誰にも危害が及ばなければ問題にならないのだろう。
このように「行われるべく」具わった能力の発現だと捉えることもできる。
生物が生を全うするための能力。
製物が付与された目的を全うするための機能。
作られた物は何であれ何かに似せて作られる。
似せたはずのもの以上のものを目指して。
きっとそれは、いいことだろう。
発展はそうでなければ起こり得ないかもしれないから。

進むこと止めること。
どちらもしなくなるのが一番いけないのだろう。
しなくなるのと、できなくなるのとの大きな差。
古語に曰。
不為者與不能者之形何以異?
しないのと、できないのとの違いは何か。
挾太山以超北海、語人曰『我不能』、是誠不能也。
大山を抱えて北海を越えることはできないと語る時、これは事実できないのだ。
為長者折枝。語人曰『我不能』、是不為也、非不能也。
年長者にお辞儀できないと語る時、これはしないのだ。できないのではない。
ここにもきっと言い換えがあるのだろう。

不為也、非不能也。
為さざるなり、能わざるに非ざるなり。
この言葉は名言として知られるようだ。
できないのではない、しないのだ。
つまり、やっていないだけとの意味合いで。
やればできるかもしれないのだし、やってごらんともとれる。
それでいいのだろう。平時は。
戒めにも鼓舞にもある。

しなくなるのと、できなくなるとの差。
しなくなるのは関心がなくなる。
本当にもう無関心になっていいのだろうか。
できなくなるのは何だろう?
事実、できないことが生じている。
「できない=不能」であるとすれば、それだけのことがあったのだ。
やる、やらないの問題ではないことが。
何かが壊れたり、無くなったりすることが。
直したり、補充したり、取り換えたりできないことが。
元に戻せると思って疑わなかったことが、そうではないと気づくことが。
やめることもできたはずのことをやめない。
不便さの中でも生きられたのに、また便利さを取り戻す活動をやめない。
「できるのにしない」には「やらなくてもいいのにしてる」を含んではいまいか。

時の流れに人の思いが乗ること。
人の想いは思いよりも先行する。
思いは重く、想いよりも日常に根付いている。
そこに見て取れる理想と現実を時間が引き裂いている。
そもそも同じ流れに乗るものではないのかもしれない。
しかし、想いと思いを同時に抱く人は、時間から逃れられない。
薄れゆくものと闘い、今と、そしてこれからと闘わねばならない。
型を整えただけで元に戻るものでもない。
元あった形になるまで戻ることはない。
この2つの間に流れる時間にいかにして押しつぶされずにいるか。

どの程度「程度問題」として問題視し取り組むのか。
残った者と去った者との間をつなぐのは思いの強さの違いだけ。
そう言い切れたらどれほどか楽だろう。
思いを残して去る者もいる。
想いゆえに残る者もいる。
事情と状況が許さないだけでまったく異なる道を行く。
けれど、終わってはいない。
その時まで、互いに辛抱するほかない。

やがて亡くなる者が出る。
そして知らない者が来る。
そうやって流れていく。
そうやって繰り返す。
その果てに行き着く先がきっと、元あった形なんだろう。
同じ人達が同じように同じ形には戻れないだろう。
そこに想いと思いが乗った時間が必要になる。
自分だけでしなくていい。
引き継いでいこうとすればいい。
回復ってきっとそういう意気込みだろう。
復興って力み過ぎなくていい。
他所からの力より地所からの力を信じたほうがいい。
伝わるものや伝わることにはおそらく限度がある。
忘れずに見守り続けてくれればいい。
安心して集中できるようにすればいい。
それでだいぶことは進むはずだから。

3.11は単なる3.11ではない。
地震がある、豪雨がある、噴火がある、台風がある。
自然災害との付き合いはいつも身近にある。
犠牲者の多さや影響の大きさだけで語られるものではない。
事前の心構えと渦中の処し方と事後の意気込みと。
一連の中にある自分をどう位置づけるのか。
当事者でない自分をどう位置づけるのか。
経過に何を見るのか。

思考とは思い考えること。
対象に包まれながら思考すること。
一歩引けないところでも思考しなければならない。
例えば、生についての思考もそうである。
思考することが、生という現象である対象に包まれている。
死について思考することはできても死して思考はできない。
限界は見えないながら限度があることを知っている。
一点か一線か一面かはわからないが境がある。
起こる前と起きた後。
生まれる前に私が私として思考できず、死して出来ないのと同じ。
しかし、人は習い、倣うことができる。
予習し備えることができる。
思考が蓄積であるとするならば3.11とはつまり、思考の1つである。

(03:45)

2014年05月15日

弘前のさくら祭りへと出かけてきた。
事前に得た情報は、今回の旅行に「思うところ」を与えてくれた。
いい情報も、あまり喜ばしくない情報もあった。
1つに、さくらの開花が早そうだということ。
2つに、弘前城の改修工事が始まり、今年を逃すと10年見られなくなること。
3つに、出発予定日付近の空模様があやしいこと。

旅行はきっかけも発見も連れてきてくれる。
そしてなにより、行かないことには出会えない「ものごと」を感じられる。
結果、今回の旅行は満足だった。
心満たされる旅だった。
来て良かった、また来たいと思える旅になった。

目的は明白。
「弘前城とさくら」を撮ること。
この点から言えば、残念だった。
弘前に5月5日5月6日の一泊二日。
前々日の大雨で例年より早く満開となっていたさくらは、ほとんど散っていた。
さて、どうして弘前城を撮ったものか?
さくらは無くとも白壁で美しい弘前城。
とは言え、あったものがない寂しさと期待感に膨らんでいた思いは砕かれた。

仕方が無い。
そう思ったらダメなのかもしれない。
散ったさくらがもう一度枝に戻ることは無い。
弘前城は変わらずある、いや、むしろ、変わる前としてある。
とすれば、今見えるもの、あるものとして撮る。

10年後、足元を固め直した城と満開のさくらをまた撮れたらいい。
今回はそれまで思いをつなぐために撮ろう。
そこには、間違いなく「弘前城とさくら」があった。
弘前城とさくら

出猩猩(でしょうじょう)の赤が秋を思わせる一枚になった。
見方、捉え方、考え方を変えれば、面白さも変わってくる。

弘前城を後にして、ねぷた村も見学。
津軽三味線世界チャンピオンの生演奏を聴くことができた。
弾く(はじく)ことが弾く(ひく)ことなのだと実感できる力強い演奏。
ビリビリと体に音色が響き揺さぶられるのを感じながら惹きこまれた。
郷土料理も飾らない、どこまでもじんわりと内側から幸せを感じる素朴な味。
ウマイッ!ではない。
あ〜、おいしいなぁ。ほっとするなぁ。と思えるあたたかさ。
美味しさはインパクトではなくて、染み渡るあたたかさかもしれない。

何に満足、何で満足かによって旅行は大きく変わるだろう。
全部がうまくいかなくてもそれでいいんだ。
その時はその時だけのもの。
次の機会を想えばいいじゃない。
だから、今回の旅行ありがとう。
10年後、またね。

(02:05)

2014年02月12日

文字は伝えるためのツールである。
しかし、それ以上の役割をも担いうるものである。
それは、何を伝えるためのツールであるのかによって決まるだろう。
事実や真実を伝えることは文字でできるだろうか。
事実と真実をわけること。
ここに働く何かは何だろうか。
そしてそれは、文字を文字以上にするものと関係するだろうか。

前置きはいつも書くように書いた。
タイトルもいつもとさして変わらないだろう。
何気なしに「いつも」と書いたが読者には違和感があるかもしれない。
一般的に、「いつも」には習慣的なニュアンスを受けるからだろう。
そうでなくても漢字で書けば「何時も」になる。
何時も=常にならそうなるのも頷ける。
けれども、それだけの意味で使われるわけでもないだろう。
普段とか大抵とかある程度の幅や例外を示している。
いつもの場所で、と、いつも笑顔の人では使い方が違う。
こんなことを気にしないことには、文字を読めないのだろうと思う。
つまるところ、違和感の原因は更新の幅が「何時も」の範疇を越えていること。
年を越え五ヶ月ぶりの作品が「いつも」の範疇としてふさわしくはないだろう。
そこが肝なのだと思う。
習慣といつもとの間にある関係性。
能動的な習慣の連続性・継続性の幅はルーズでもかまわないかも知れない。
これはやめない限り幅の範疇にあるから。
しかしながら、受動的な場合そうとは限らない。
少なくとも、記憶に、あるいは、印象に残っている間の幅をもって習慣だろう。
久々に覗いて更新を知った場合。
それは即ち、楽しみに待つ対象としての習慣から脱落している。
提供する側、提供される側の間にある感覚的な距離感は密接ではない。

ところで、タイトルをなんと読んだだろう?
ここにも書き手と読み手の感覚の差、文字の限界があるかもしれない。
イチドク イチケンカイ ノ ナンと読んだだろうか。
そう読んでいただいて結構。
読者には、読んで読みやすいように読む自由がある。
イチドク イッケン カイ ノ ナンと読んで欲しいと思って書いた。
この差は大きいと思う。
一読して一つの見解を持つのは難しい。
一読一見して理解するのは難しい。
どちらも難しいことを言うけれども対象の幅の違いがある。
と、いうようなことを本を読んだり映画を見たりしても注意してはくれない。
パラパラと読んでみて、何分か見てみて、内容から意味を知るしかない。
それがタイトルならそれでいい。
作品内容の重要な部分でこれと同じことが起こったらどうだろう。
そこに読み違いや思い違いが起きて作品の評価も変わってくるだろう。
これらが全て任されているからこそ、作品が作品としてあるのかもしれない。
発表したら作品は自分の手を離れるとは良く聞くフレーズである。
誤解を受けない表現と配慮をして発表していることが前提されるが。
それでもなお評価が分かれるなら、きっとこういう部分のせいなのだと思う。
伝えきれない何か、表現しきれない何か。

何かって何さ!?
ただ答えを聞いてそれでいいというものでもないだろう。
また、答えを用意することに納得しないで出される答えもあるだろう。
そんなわけで、あとがきだけの本と解説付の本とが出てくるのだと思えてくる。
そうだとしてもきっと、そこに答えはないだろう。
この作品の理解のためにこれとこれは必須ですなんてことは、ない。
必須は必須であってもちろん他にも必要になってくる。
それらが「何か」を構成する重要な要素であることはまず間違いないだろう。

具体的な例を一つ提示したい。
映画『ハンナ・アーレント』を少し前に観てきた。
予備知識がなければ後半になってからの部分でしかストーリーを紡げない。
そして、後半で紡いだストーリーを私は理解することはできないだろう。
これが現時点での感想である。
ストーリーを紡ぐのは作品に接した自分の中で行う作業。
この作業をしてこそ、接した作品が作品として認識されるのだと考えている。
この意味において私にとって『ハンナ・アーレント』は簡単ではなかった。
予備知識が貧弱だったことが要因だが、それだけではないと断言できる。
私は日本に生まれ戦争を経験していない。
そして、知る限りにおいて私は日本人である。
作品で語られたことをここで書くことはできる。
それは理解しているからではない。
作品の要素を抜き出すだけだからできるに過ぎない。
理解とはそれだけのものではない。

理解に至らずとも解らないことが解ったのは重要だと思う。
何故理解できないのか。
民族と宗教と歴史が違うゆえにというところか。
これらが違っていても、例えば、愛を育むことはできよう。
しかしながら、思考はそうではない。
人に関わることにおいて、殊に、為されたことにおいては重要である。
民族問題を理解することは誰にとっても困難であろうと思われる。
異文化交流をして風土を肌で感じ、肌に馴染んでもきっとそれは違うこと。
「どこの」が先行し「何を」が追従する。
最後にそれを為した「誰」が行為を固定化する。
これは気をつけてニュースを聞くと気づきやすいかもしれない。
名誉なニュースは誰が先。
事件等はどこが先。
事件は場所の特定で大多数の不安の緩和があろうとは考えられるが。

例えば、海外の事件で昨年のボストンマラソン爆発事件。
一報はボストンマラソンで爆発事件が発生だった。
イスラム過激派の関与するテロかとも報じられた。
日本人被害者の有無も伝えられた。
最終的にチェチェン系の兄弟によるものとなった。
「どこの」とはこういうことを指す。
テロ行為をするのは○○系というような前提から入る。
この事件では映像と情報を元に容疑者を特定したようだ。
アメリカにおいてはこれが円滑に行えるようにシステムを構築した。
重要なのは、アメリカではテロリストをリストアップしていること。
さらに重要なのは、そのことを対外的にも公表していること。
思想的にマークすることで行為と結び付けやすくしている。
一歩踏み込めば、思想的な拠点となる地域を特定している。
これが9.11を教訓に対策を講じた結果だった。
としても、起こりかねない事態だった場合のことはほぼ報せられない。

話を少し戻して、「どこの」「何を」「誰が」である。
5W1Hが浮かぶかもしれない。
けれど、実際には次のフレーズで覚えているのではないか。
いつ、どこで、誰が、何を、どうした。
小学生頃にお楽しみ会等でやった記憶があるかもしれない。
紙にいつ、どこで、誰が、何を、どうしたのかを書いて各々箱に入れる。
各々の箱から1枚ずつ引いて組み合わせるゲーム。
これは4W1Hであり、なぜ?は問題視されない。
動機はどうあれ、ある日どこかで誰かが何かしらの行動をとる。
そこにあるのはまさに日常。
自分と接点のないところでの行動に意味も理由も必要ない。
そういう土台があるとしたらこれは恐ろしいことではないか。
平時の無関心。時事の糾弾心。
誰かがいる所何かが起こる。
いつもは無関心なのにいざ事が起こると原因究明と責任追及。
元々なぜ?のないところには責任もないのではないのか。

人は話題を渇望しているのか。
ならば、それに伴って原因から結果へ至る経過の思考を行うべきだ。
物事を判断するためには物事を正しく認識せねばならない。
認識するためには、知らなければならないし、思考せねばならない。
そこを抜きにして感情的に糾弾するのはヒステリー以外の何物でもない。
悪事が行われた時、行為としての悪事が行為者に属するものかどうか。
行為者に属するとはどういうことか。
拒否もせず、支持もせず行われた行為の結果は裁けるのか。
悪事を行う意思は特定の立場にあれば当然導き出される帰結なのか。
それは、そういうことでなければ裁けないから出た理屈ではないのか。
人を介したにも拘わらず結果しか出なかった悪事。
このような思考が「凡庸な悪」として示されたことは大きい。
映画『ハンナ・アーレント』ではしかし、それよりも重い。
アメリカ人作家で親友のメアリーは最後までハンナの支持者でいた。
それは、民族問題を括弧に入れられたからだったのだろうと思える。
旧学の仲間はみな括弧に入れるべき問題を入れられずにいる。
訴えたいこと、伝えたいことに付随する情報が益であるとは限らない。
けれど、本質を、そして、事実を求めるならば認識し思考すれば見える。
そうでなければ、「凡庸な悪」は身近にあるのであり簡単に堕ちてしまう。
だがしかし、括弧に入れた問題もいつか出さねばならない。
ここで括弧に入れたものを出した後のことを考えることが私にはできない。
上で述べた、紡いだストーリーを理解できないとはこのことである。
さらに、前置きで投げかけた「何か」へのいくつかの答えも述べた。
書き手として記事を書き上げた。
あとは読み手に紡いでもらう他にできることはないように思える。

(02:50)